odd_hatchの読書ノート

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沼正三「家畜人ヤプー」(角川文庫)-2 日本のサムライ男子が夢見る大日本帝国のユートピア

2024/01/09 沼正三「家畜人ヤプー」(角川文庫)-1 白人と女性優位は日本男子のディストピア 1972年のつづき

 遍歴にしろ教育にしろ無垢な主人公が体験を積み知識を吸収するには、優れたメンターが必要になる。「肉体の扉」の父親や「O嬢の物語」の館主のように。生徒はいまだ見ぬ社会を知らなければならないので、メンターはなにもかも啓蒙しなければならない。ここではポーリーンがその役を一手に担う。ポーリーンは性愛技術や用具だけを教えるのではなく、宇宙帝国「イース」のすべてを教えなけらばならない。白人権力と家畜人ヤプーの歴史から女権制の社会構造、黒人奴隷から家畜や人体家具、食事から排泄まで、娯楽から恋愛に出産、などなどありとあらゆる事を説明し実物をもってきて解説し実技を行い訓練を行うのである。その結果、本書はユートピア小説に似てくる。幾多のユートピアでも主人公は異世界に投げ込まれ、無垢な主人公にその社会の構成員によって社会の成り立ちと運用を詳しく説明され感化される。なので、本書はカンパネルラ「太陽の都」、ウィリアム・モリスユートピアたより」にとても似通ってくる。神話的な起源まで説明があるからダンテの「神曲」ともいえるのかもしれない。そういう文学史的な興味もつきないが、性愛文学の遍歴と教育による自己変革というテーマは別の「ユートピア」小説を想起することになる。それがオーウェル1984年」。
 このディストピア小説全体主義社会によって疎外される個人を描いているので、一見「家畜人ヤプー」とは合わないように見える。自分の見る類似点は、「1984年」のスミス同様に、クララと麟一郎も全体主義社会イデオロギーを受容し、自分は価値がない存在であると認識するように教育されることだ。クララも麟一郎もスミスももともとは近代の民主主義と自由主義の価値観をもっている。それが唯一者によって統治され社会の階層があり自分の意志で立ち位置を変更できない社会の価値を受け入れるようにされる。どちらの小説でも教育(調教)されるものは、存在と文化と社会の革命を実行し、新しい価値観を自分のものにしなければならない。スミスがビッグブラザーを愛するようになったように、クララは女王を、麟一郎はクララと白人を愛するようになり、彼らの命令に逆らえないようになる。むしろ命令されることが喜びである。上位者から無視されるようなことになれば、自分の存在を抹消して感謝を示すことになるだろう。ポーリーンがクララと麟一郎に対してとても熱心なOJTを行うのは、クララと麟一郎の各種の革命による自己変革が自発的であると思わせるためなのだ(ということは本書「家畜人ヤプー」は他のポーリーンたち教育者・調教者の優れた教科書になるであろう。同時に、家畜になることを望むものにとっても有益なマニュアルなのである)。
 そこまで考えると、「家畜人ヤプー」に現れるヤプーたちは、白人に支配される被差別者の悲哀にあるものではなくなる。自発的な隷属者は、主人の気まぐれに感謝するようになる。ヤプーは自分のアイデンティティに悩むことがない。上位者の白人の命令に絶対に従わねばならず、そむくことが恥なのであり、誰かの恥はヤプー全員でそそぐように務めるのである。第10章「矮人決闘」にみられるように、白人にセップクを命じられると、死の忌避感情はなくなり、名誉と歓喜を覚えるものになるのだ。
 ああ、これは天皇イデオロギーユートピアを描いているのではないか。日本人は個人主義と民主主義では全体にまとまらず、生と死の価値と意味を見出せないのであるが、とても強くしかし慈愛があり厳正に処罰する上位者がいれば、強い団結を示すことができる。これこそ大和朝廷以来のありうべき日本人と日本国の姿ではないか。「家畜人」とされるヤプーも、その社会に適応し、幸福を感じているのであって、これこそ天皇イデオロギーから見た、あるべき姿の日本人そのものなのだ。
 ただし、第3次大戦によってのちにヤプーになる日本人を除いた黄色人種は絶滅したとされるので、天皇イデオロギーのひとつである他民族差別はここにはない。それは1950年代の日本人の大方の認識である「日本は単一民族国家であり国内に民族差別は存在しない」を反映している。天皇も不在であるが、その位置につくのが白人であるのも、対米従属政策をとるその時代を反映している。さまざまな意匠によって1950年代の日本の政策を承認しているのだ。そうすると、本書は占領政策戦後民主主義で抑圧された天皇イデオロギーをマゾヒスティックに復古しているのだとみなせる。みかけは日本人の名誉と尊厳を損なう不快な書物であるが、実際は「真の日本人」の姿を描き日本人を賞賛する小説なのである。
(たぶん右派論客が本書を賞賛すると思うよ。三島由紀夫の発見で有名になったとか、角川文庫の解説が曽野綾子イザヤ・ベンダサンらの極右であるとか。)
(21世紀の自民党政権の政策や旧統一教会日本会議の運動は、日本人を「家畜人ヤプー」化するのが目的にみえる。一億総ヤプー化を積極的に翼賛しようとするネトウヨや極右もいる。これらの白人礼賛と大日本帝国賛美は、この小説そっくりだねえ。)

 同じことを考えた論文がありました。サマリーを引用。

「「ヤプー」においてマゾヒズムがいかに機能しているのかを検討した。即ち、倉田は皇国教育を受けて育ったいわゆる戦中派知識人に該当する。彼のマゾヒズムは、戦後もはや表明することのできない愛国心ナショナリズムを逆説的に肯定するための根本理念として機能しており、本作で描かれる、日本人が白人の家畜とされた世界には、実は大日本帝国の構造をより洗練させ理想化した世界が重ね合わされている。」

 

河原梓水「マゾヒズムと戦後のナショナリズム——沼正三家畜人ヤプー」をめぐって」坪井秀人編『戦後日本文化再考』三人社、2019年

researchmap.jp

 

 本書で目に付いたのは、家畜人の人体改造と商品化。家畜に権利を認めない社会なので、人間が家畜を改変する事は当然とされている。1950年代には空想でった人体改変や人体の商品化は次第に実現していった。貧富の違いによって、人体の商品化による利益・不利益の不均等が起きている。洗脳や隷属教育によらなくても、貧しいという理由によってヒトが「家畜人ヤプー」化される事態になっている。人体改変や人体の商品化を先鋭化した時にどういう事態になるかという参考になりそう。
米本昌平「バイオポリティクス」(中公新書)-1 2006年
米本昌平「バイオポリティクス」(中公新書)-2 2006年

 角川文庫版にはないが、その後の改定でヤプーの女性には白人の代理母になるものがいることになった。それに選ばれたものは、白人社会の中にはいり、人工授精によって身ごもる。まさに子宮を商品として使用するわけだ。どこかで読んだマンガ版では代理母に選ばれた女性は名誉と考えていたようだが、それは男性視点から見たからだろう。女性視点では、代理母の強制や子宮の商品化は恐怖であり、孤立化を進めることだろう。
マーガレット・アトウッド侍女の物語

 

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 初読は20代なかばであったが、そのときは作者の知的遊戯と性愛文学として読んだ。ことに前者の様々な読み替えは知的興奮をもたらした。エンタメ小説で勉強することができる滅多にない本だった。でも、本書の全体主義志向と残虐描写は老年には耐えがたいし、ネトウヨの「日本スゴイ」本と同じことを言っていると思うようになったので、途中で完読をあきらめました。