2024/03/04 高橋和巳「邪宗門 上」(新潮文庫)第2部 挙国一致の翼賛体制で大衆・庶民は政治参加する楽しみを得る。窮乏による不満と不安はマイノリティにぶつけられる。 1966年
2024/03/04 高橋和巳「邪宗門 上」(新潮文庫)第2部 挙国一致の翼賛体制で大衆・庶民は政治参加する楽しみを得る。窮乏による不満と不安はマイノリティにぶつけられる。 1966年の続き
敗戦。戦争を開始し推進した連中はポツダム宣言受諾とともに店をたたんでしまったが、エピゴーネンたちはルーティンを止められない。法務大臣は政治犯の釈放をしぶり、占領軍が解放を命じるまで収監した。そのために重症の介泉を病んでいた教主はその前に獄死する(これは三木清をモデルにしている)。ひのもと救霊会本部には男がいない。教主の長女は別の宗教集団に嫁いでいったが、そこはファシズム団体とされて活動停止させられる。継主になった次女は復員者が来て組織が膨張するのを茫然と眺める。しかし活動を再起させた教団には信者を多く獲得し、しかも地元のストライキを支援して闘争に勝利したことで多くの味方と敵を作る。組織の拡大は止まらず幹部の不足に嘆いているところに、南洋から復員した千葉潔が帰る。千葉は高校の仲間を呼び寄せ、組織の運営に携わせるとともに、自身は企画院なる部署に入り、幹部会とは別の活動を始めた。
千葉潔は南洋に送られた時、上官の命令で捕虜虐殺に関与していた。戦争犯罪者を処罰する法廷が開かれる前に、どさくさにまぎれて帰国していたのだった。人に言えないこの体験(母の食人、捕虜虐殺)は彼の心を空にする。もともと救霊会は世直しの運動を目的にするところがあると同時に、悪の処罰を辞さないのである。なので戦時中に収監されていた幹部は戦争責任者を宗教裁判にかけるべきと、皇居前で演説したりした。そして、コメの供出を拒否していたために警察と占領軍が本部を捜査しにきたとき、第3代の教主になった千葉潔(獄死した教主の次女の指名)は教団あげての世直しを命じ、最初に本部のある村の「解放」(警察署や市役所などの選挙、通信途絶、信者の武装化、農地解放など)を行う。全国の支部や協賛団体も呼応してストライキや一斉蜂起などを行うのであった。その闘争は一夜の輝きを見せたものの、警察と占領軍の介入による各個撃破されるのであった。
通常、この決起は日本の奇妙な新興宗教集団が国家に敵対して弾圧される過程として読まれる。でも俺は、千葉潔の決断は自死を求めた大日本帝国末裔による「本土決戦」であると見た。ひのもと救霊会は古神道の教義をとりいれた民間信仰のアマルガムであり、天皇信仰はそれほど大きくはない。生活が宗教化されている。これは日本人の典型だし、日本人のメタファーだと思う。そのような典型的な日本人が回避された本土決戦を国家と占領軍に挑む。もともと勝利する展望はない。むしろ敗北、それも徹底的な、を目指すだけ。戦場で死ぬことを命じられた日本人が敗戦によって本土で死ぬことができなくなったので、死に場所を求めて無謀な闘いを挑んだ(大江健三郎「遅れてきた青年」の主人公がこの闘いを事前に知っていれば参加したことだろう)。徹底的に敗北することで、生き残った日本人は大日本帝国にも占領軍にも従属しない新しい人間に生まれ変わりうるのだ。生まれ変わるには大日本帝国の罪を問われないようにならなければならないので、罪を犯した人間はすべて死ぬ。そのことで罰と責任を引き受け、大日本帝国の罪を浄化するのである。千葉潔の破壊願望や自滅志向はこのような文脈でとらえるものなのだろう。
千葉潔は貧困の村に生まれ、母を餓死で失い、兵隊にとられて上官の命令で捕虜虐殺を行う。およそ日本に対する愛着や敬意などはもっていない(育ててくれた集団の宗教を信仰することもない)。どこにも帰属意識を持たないし、自己評価が低くて命を粗末に扱う。そのような余所者、異邦人が日本への復讐と日本ができなかったことの決着をつけることを実行したのは奇妙。
実際にはなかったが、もしかしたらありえたかもしれない歴史を仮構する。そうすると、実際にあった歴史のさまざまな時点であった判断や決定がもしかしたら誤っていたのかもしれない。ありえたかもしれない歴史を実行することで、実際にあった歴史の誤りを正し、よりよい国や共同体をつくることができ、われわれ読者の生活も変わっていた。そういう考えを持つことの契機になる。作家のねらいはここにはなかっただろうが、21世紀にこの大長編を読むときの〈可能性〉があるのではないか。
(なので新興宗教集団の全体主義志向、テロリズムとの親近性、武装共産主義運動との対比のようなテーマはすべて無視しました。第3部の武装蜂起もフランスやロシアの革命、中国の宗教集団蜂起との類似をみることもできそうだが、すべてスルー。)
国家に抗する戦争というテーマは、1970年代から日本文学に現れたと思っていた。念頭にあるのは、西村寿行「蒼茫の大地、滅ぶ」、大江健三郎「同時代ゲーム」、井上ひさし「吉里吉里人」、三田誠広「漂流記 1972」、村上龍「コインロッカーベイビーズ」、川西蘭「パイレーツによろしく」など。でも本書は1966年で、ずっと早い。作者の意図は国家に抗する戦争を描くことにはなかったと思うが、はからずものちの日本文学のテーマの先駆になった。21世紀にこのテーマを書く作家はいるのかなあ。