odd_hatchの読書ノート

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田中克彦「ことばと国家」(岩波新書) 国家は言葉を管理し同化と民族差別を助長する

 ナショナリズムと言語についての解説書。35年前に読んだときはさっぱりだったが、ナショナリズムと差別のことを勉強するようになると本書はがぜんとして精彩を放つ。40年前(1981年刊)の本だが、今でも新しい。とはいえ、多くは常識になった(ということは俺は本書に影響されていたのだ)。それに、EUができてからヨーロッパの言語政策はかなり変わっているはず。本書にでてくる「方言」、雑種言葉は使用が認めらている。一方、21世紀にはイスラムの人たちが語ることばが新たな軋轢になっているだろう。出版当時はヨーロッパの言語をおもに参照しているが、21世紀には最終章にあるように植民地の言語と国家(自国と宗主国の両方)を考慮する必要がある。

1 「一つのことば」とは何か ・・・ 学問的には言語と方言の違いはなく、政治状況と願望で決められる。ひとつの言語が国家と一致しないことは多々ある(複数の言語をひとからげに中国語やロシア語にしたり、同じ言語を韓国語と朝鮮語にわけたり)。方言の言語化を国家は阻止しようとする。それはその言語の話者(あるいは言語共同体)が独立を要求するなどして、国家を分断するから。有名なのはカタロニア語話者の独立運動。そのようにみると、近代以降、国家が言語を作る。その時、書き言葉(往々にして標準語とされる)が語り言葉(独自の書記法を持たない方言など)より優位にあるとされる。
(方言話者を国家は差別する。日本語でいえば、アイヌ語琉球語話者がそうされた。関東大震災では被災地から見た方言話者が虐殺されている。)

2 母語の発見 ・・・ 人は母から授乳といっしょに行われる語りかけを言語習得のきっかけとする。そうして習得した言葉は他に変更しがたい。それに対し国家が言葉を強制する場合がある(ラテン語や古代中世日本の漢文)。これが俗語化するにつれて変容し新たな言語になる。母語復権する運動は中世西洋でみられる。ダンテ、セルバンテスデカルトなど。母語は話す言葉。また母語と居住する国家の言葉が不一致になるケースがある。出稼ぎ労働者・移民・難民など。母語と故語(国語)が一致しない人たちは往々にしてその国で差別にあう。
ツイッターのフォロワーに「故郷は日本・祖国は韓国」と書いている人がいた。上の状況をよく現している。)

3 俗語が文法を所有する ・・・ 母語によらない書き言葉は国家や特権階級が独占するものだった。その手段になったのが文法であり、逸脱を認めない禁止の体系である。加えて文字が持つ秘儀性・呪術性もあり、逸脱するものは人権の制限や差別にあった。言葉、とくに俗語は流動するものなので、常に文法から逸脱する。支配階級はそれを「国語の乱れ」「誤り・訛り」「方言」と蔑んだ。
(書き言葉をよくするエリートが保守化したり権力と一体化するのは、書き言葉の独占に由来しそう。)

4 フランス革命と言語 ・・・ 国家が言語の地位を規定し、外れた言語を排除する動きをフランスを例にとる。フランスは多様な言語が併存しているが、北フランスのフランス語を公用語にする運動は16世紀ころに始まる。もとはラテン語の権威を弱めるためだったが、それは次第に他の言語を排除する動きに変わった。それはフランス革命でもそうであり、さまざまな封建制度民主化したは、言語に関しては貴族社会の伝統を守った。1980年ころでもそうであり、フランスの大学ではフランス語以外の言語が教えられることはない。
(EUができてからはこの動きは抑えられたはずで、各地では複数言語の表記があたりまえになっている。多言語共生は独立運動の緩和にもなっているはず。このような言語の統一と公用語の強制は他の国、たとえば旧ソ連、中国、日本などの歴史を知ることが必要。少数言語の話者が差別されてきた歴史と重ねることが必要。)

5 母語から国家語へ ・・・ ドーデ「最後の授業」はドイツ語に似た言葉を話すアルザス地方にフランス語を定着させるために送られたフランス語教師の話で、言語的な支配の独善を描いている。これは日本語を強制された琉球人や朝鮮人の側に立って読むべき。日本語の「国語」は明治時代の造語で、官製。日本語教育、方言潰しの一環で使われた。
(「国語」が定着したのは明治20年代なかばなので、大日本帝国憲法発布後の言文一致運動と同時期。)

6 国語愛と外来語 ・・・ 国家に固有の言葉ができると、自国語を賞賛する気風がでてくる。その時のスローガンは自然で明晰、あるいは純粋。後者から国語の純化主義がおこり、外来語の嫌悪や排撃が起こる。以上を18世紀までフランス語優位だったドイツ(とくにプロイセン)の事例でみる。

7 純粋言語と雑種言語 ・・・ 国家に固有の言葉ができると「純粋言語」があると思うようになるが、これは幻想。しかし19世紀には強固なイデオロギーになった。標準的な言語を使うものは、聞き取りやすい・理解しやすい混成言語や雑種言語が蔑まれるようになる。混成言語・雑種言語が生き延びるには、国語からできるだけ離れるほど固有性が維持できる(アイヌ語は日本語から遠いので維持可能だが、日本語の方言と思われる琉球語は同化しやすい)。

8 国家をこえるイディシュ語 ・・・ 混成言語や雑種言語が生き延びて民族運動になった例としてイディッシュをみる。イディッシュはライン河周辺に移住したユダヤ人によるドイツ語方言に由来する言語。話し手がヨーロッパを転々としたので複数の言語の影響を受けた。ドイツ語に似ているので「崩れた言語」として蔑まれた。19世紀の反ユダヤ主義において復興運動が起こる。共産主義者はこの言葉を排撃した(レーニンなど)。

9 ピジン語・クレオール語の挑戦 ・・・ 西洋の植民地で生まれたピジン語・クレオール語母語となり公用語になるまで。

 

 35年前の1980年代はポスト構造主義などの流行で、ソシュールもよく話題になっていた。本書もソシュールの名前があったから手に入れたのだろう。あいにく当時のソシュール解説本とは全く異なる説明があったので、投げやりな読み方になったはず。
 さて、本邦の自称愛国者は上にあるような日本語が純粋言語であるかのように思い込み、アイヌ語琉球語がないかのような排撃・排斥を行っている。それらの「愛国的」な言動に対する批判は本書で代替カバーできそう。くわえて、本邦の大日本帝国は植民地や占領地で日本語を強制するという言語帝国主義もやっていた。通常は社会的・政治的な抑圧として語るのだが、日本穂教育や罰札制が文化的な同化主義であり、民族浄化の一環であったことを意識しないといけない。
 言語は自然に発生したのかもしれないが、国家ができ複数の言語が併存する状況になると国家が言語を管理するようになる。そのことに自称愛国者は留意しないで、言語が国家よりさきにあるとしてナショナリズムの根拠にしている。そこから少数民族への差別が生まれる。なので、言語に基づく差別に対抗するには本書の内容を把握しておいたほうがよい。

 

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