odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

筒井康隆「全集20」(新潮社)-1977-78年の短編「関節話法」「虚構と現実」など

 いくつかの作品は「宇宙衛生博覧会(新潮文庫)」「エロチック街道 (新潮文庫)」に収録。エッセイ「虚構と現実」は「着想の技術」新潮文庫に収録。


関節話法 1977.05 ・・・ ビザング星人は人間に似た体形であるが、手足は細く関節が極端に太い。彼らは関節を鳴らして会話する。そこに大使として派遣された日本人。普段使わない関節を使っての就任あいさつに四苦八苦。しばらく平穏であったが、彼らの貨物船が略奪にあい、国交断絶を申し出てきた。大使は説得しなければならないが、関節が痛んで、ちゃんと音が出なくなる。ちゃんと「発音」されない言葉を直訳するものだから、罵倒語と猥褻語が頻出し、どんどん支離滅裂に、意味不明になっていく。

われらの地図 1978.02 ・・・ 小松、星、半村、筒井、豊田、荒巻、眉村(敬称略)が麻雀している。いい加減な距離感覚。

顔面崩壊 1978.03 ・・・ シャラク星(沙羅くせい)でドド豆を煮るときの注意。原虫、蛆、蠅が寄生して、タイトル通りのことが起きる。言葉だけでおぞましさ、気色悪さを表現するのはすごく困難だと思うが、みごとに成功。

また何かそして別の聴くもの 1978.06 ・・・ この国のなぞなぞは古代からあるが、「○○とかけて、××と解く。心は△△」というなぞかけは比較的新しい(といっても江戸の初め)という(鈴木棠三「中世なぞなそ集」岩波文庫)。で、著者は現代の言葉でなぞかけをするが、テレビ番組「笑点」とは違って、地口やしゃれや見立てを行わず、一切の関連をもたせない。これはなかなか難しく、うっかりすると意味が通ってしまう(ということを著者がエッセイで書いていた)。最後には、言葉が解体して音の羅列だけになる。「残像に口紅を」第3部のはるかな先駆。

中隊長 1978.07 ・・・ きわめて知的で、几帳面で、猜疑心が強く、疑心暗鬼の中隊長。国境警備のルーティンを事細かく書く。文法的に正しく書こうとするほど冗長になって、情報量が減る。句点が極端に少なく、情景描写と内面の詮索の区別がつかなくなる。

日本地球ことば教える学部 1978.08 ・・・ タイトル通りの講義の様子。読んでいて不審に思うのは、タイトルのように日本語だけどどこか違っている。例文は読者の使う文章であるのに、形式論理を徹底する(あるいは語の意味するものを知らないので、想像でおぎなう)結果、通常読者の使う意味とは全く逆の意味になってしまう。読者が「自由」に使いこなせる母語が解体している感じ。これは想像にあるだけではなく、東南アジアの看板でよく見かけるもの。もしかしたたら日本語を母語にするものが勉強する他民族語はこんなふうになっているのかも。(日本で出ている教材で英語を勉強したのに、サンフランシスコでリコンファームの電話をかけたらちっとも通じなくてね。おれはたぶんこの学部の生徒だった。)

最悪の接触(ワースト・コンタクト)1978.09 ・・・ 辺境の惑星の隊員がマグ・マグ人と最初にコンタクトすることになった。その1週間の共同生活の記録。ル・グインでは最初のコンタクトである程度の理解が進むのに、ここでは全くダメ。行動と論理の壊れっぷり。会話は「また何かそして別の聴くもの」「日本地球ことば教える学部」みたいにちぐはぐする。

虚構と現実 1979.01-09 ・・・ 「文学部唯野教授」で予告されていた教授の虚構理論の講義を聞きたい(読みたい)なあと思っていたのだが、なんとここにあったのか! 「現実には絶対にありえぬ虚構独自のものを抽出してそれのみを主張するような虚構性を持つ作品」を構想して、それを書く方法を検討する。これがエッセイの主題。なにしろこの国の近代小説は自然主義の伝統的手法が強くて「現実」的であることが優先されていたのだけど、それが世界基準で見ると(1970年代当時)、すでに遅れた考えになっている。「想像による美、真こそ純粋」という立場もありえて、それを目指したいということだ。それが伝統とか常識とかに安住、なれ合いから抜け出る方法になるのである。そのためには作家が実験しなければならないし、啓蒙する批評家が必要であり、理解して面白がる読者も育成しないといけないという戦略的な問題も抱える。この種の問題意識は「SF」というジャンルではごくあたりまえであるが、メインストリームではないSF(当時)ではほぼ理解者がいなかったのだ。なので、当時は著者の孤軍奮闘ぶりが目立った(1980年代になると、SFは純文学の手法の一つになり、SFや虚構性を取り入れた文学が出るようになった)。虚構性を持つ作品を創作する方法として、著者は「時間」「社会」「人物」「着想」「事件」「風景」「場所」を検討する。議論の中身は別の手書きのノートに残しておくことにしてここには記さない。重要なのは、全集20から後の作品は、ここに予告された方法を具体化する試みにほかならない。すなわち、難解とされる「虚人たち」「虚航船団」「夢の木坂分岐点」、短編では「エロチック街道」「ヨッパ谷への降下」「遍在」などはこのエッセイに意図と方法が書かれている。「最悪の接触」「三月ウサギ」のような性格破綻者、統合失調症じみた狂気が描かれるのも、「遠い座敷」「追い討ちされた日」のように時間が融解するのも、方法はここに書かれている。これらの小説を読んで小説や方法の技術に感動したのだが、それはここにあるような理論と思考があったからのこと。ここまで考えていたのかと感動した(途中のフロイトユングの話にはノレないのだが)。ここになくて、著者が試みていたのは「言語実験」くらい。


 著者はものすごい勉強家。「関節話法」で医学用語の関節名を頻出させ、「顔面崩壊」で皮膚・筋肉の学術用語を使い架空の生物の生態を詳細に書く。同時期に連載していた「みだれ撃ち涜書ノート」には医学・生理学関係の本は紹介されていなかったけど、ちゃんと読み込んだのだろう。それは最後の「虚構と現実」でもそうで、フロイトユングの学説を紹介し、ロブ=グリエの議論を批評する。読者は彼の文章を読んだだけでわかった気になれるほど、コンパクトで核心を抑えた説明になっているのも。まあ、なんともすごいや。
 そうしたうえで、実作やエッセイで読者の教育や啓蒙も行う。同時期の大江健三郎丸谷才一井上ひさしなども同じように文章による教育や啓蒙を行っていた。自分は当時の「批評」の様子を覚えていないし、調べたこともないけど、かつては批評家がやっていたようなことを作家が自分でやらないといけなくなっていたわけだ。そのうえで書かれた作品はエンタテインメントで、理論や技術を知らなくとも、初読で楽しめる。くどいけど、これってすごいこと。