odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

鈴木孝夫「ことばと文化」(岩波新書) 日本は同一・同質という思い込みは外国人との交流を妨げる

 外国語を習得するにあたり、日本人は様々な困難に直面する。大きな理由は、その言語が置かれているコンテクストを理解しないところにある。すなわち、ことばが社会や文化の中にあり、個々の項目はほかの項目との間で相対的に価値が決まることを無視するため。一部・特殊な事例を一般化・拡大したり、自国の文化のコンテキストに置いて解釈したりする過ちを犯すからである。文化は本能的生得的なものを除外して

この本の中で私が文化と称するものは、ある人間集団に特有の、親から子へ、祖先から子孫へと学習により伝承されていく、行動及び思考様式上の固有の型(構図)のことである。文化をこのようなものとして把えることは、今や言語学や人類学の領域では常識となっている(まえがき)

 そうした文化のちがいがことばの違いになる事例を紹介する。そこからいくつかを指摘する。自分が気になることを箇条書きにすると
・ことばとものの優先順位であるが、ことばがものをあらしめる。というか名づけされた言葉の体系がないと「もの」の存在に気付かないし、問題があることもわからない。ことばが認識の手がかりになる。
・というのは、ことばの分節性が世界認識の最初になるからで、分節性は文化に依存している。
・辞典はことばの意味を説明できない。意味は教えられない(無自覚に学習するものだから)。定義は教えられる。しかし基礎語(たとえば岩、水のようなことば)は定義できず、循環的な説明しかできない。
(このような文化依存的な隠れた意味を共有しない外国人にことばを教えるのはどうやってか。冒頭の日本人の外国語習得困難問題にぶつかる)
・形容詞や動詞は定義しやすく、名詞は定義しにくい。(ことに固有名は定義しずらいだろう)
(後者の2つは、柄谷行人の「関係の非対称性」「固有名をめぐって」につながる指摘と思う。ちなみに本書は1973年刊なので、柄谷行人より前)
2018/12/13 柄谷行人「探求 I」(講談社) 1985年
柄谷行人「探求 II」(講談社)-1 1989年

 最期の「人を表わすことば」で、日本人は他人をいかに名指しするかを人称代名詞とそれ以外の呼び方を採集して検討する。すると、ヨーロッパの言語では「私」「あなた」を呼ぶ代名詞は固定されているが(歴史的な変化はある)、日本では相手の属性に合わせて千変万化する。それをみると、日本人の自己は具体的な相手が出現してその正体を話し手が決定するまでは定まらない。座標未決定の開いた不安定な状態にある(妻が夫を「パパ」と呼んだり、幼児に「お兄ちゃん」と話しかけたりするなど)。
日本語に見られるこの自己規定の対象依存的な構造は、私たち日本人が未知の他人と、気安くことばをかわすことを好まないという行動様式と無関係ではないと思われる。相手の素性が分らないということは、相手と自分との関係が決定できないことを意味する。従って話者の自己は不安定な未決状態におかれたままになり、安定した人間関係を組むことができにくいのである。/日本人にとって素性の知れない相手という点で最たるものは、いわゆる外国人であろう。典型的な単一民族社会に育った私たちは、外国人を一見しただけでは、相手が何者であるかを同定するために必要な情報の手がかりを掴むことができない。そこで相手を同定する機能が、紅毛碧眼の人間を前にしてショックによる拒否反応のため、一種の麻痺状態になると考えられる(P198)
 そうなるのは日本人が自分のいる文化や社会が同質・同一であるという前提にたっているからで、共同体の中で自他の相対的な位置を決定すると容易に敗れることがない。そのために、

対象同化の心的構造は、進んで自他の区別を超克することに価値を認めるものだから、これはまた精神病理学土居健郎氏の提唱される、世界でも珍しい「甘え」の精神風土ともつながって行く。このような個と個の融合を可能にするものは、あまりにも同質的な文化、民族、宗教であることは既にしばしば指摘されている通り(略)ただ最後につけ加えたいことは、日本人が国内で日本人を相手にしている限り、甘えにせょ対象同化にせよ、それはそれなりに有効に機能しているのだから問題はないのだが、ひとたび日本人でない相手と接することになると、この日本的特性は有効性を失ってしまうという点である。/相手に同化し、甘えることになれている日本人は、つい自分を相手に投射し、相手に依存する。そして相手もまたこちらに同調してくれることを期待してしまう(P202-3)

 文化を共有しない「外国人」には依存・同調を期待するのだが、それはたいていのばあい裏切られる。それが外国人恐怖や嫌悪の理由になり、民族・人種差別を誘発すると考えられる(まあ、アーレント全体主義の起源」などを参照すれば、実際に「外国人」と接する前に、国民国家が他民族を差別するよう教育・啓発する。あらかじめ作られたヘイト感情が実際の「外国人」に体面すると、ヘイトクライムになってしまうのだ)。
 本書は言語学の啓蒙書なので日本語と他の言語は対等の関係にあり、価値の優劣はないことにされている。実際は、国家が言語の価値をつけている。そこは以下を参照すること。
田中克彦「ことばと国家」(岩波新書)

 章立て
1 ことばの構造、文化の構造/2 ものとことば/3 かくれた規準/4 ことばの意味、ことばの定義/5 事実に意味を与える価値について/6 人を表わすことば
(18歳で読んだときは、日本は「氷」「水」「湯」を区別するのに、英語は「ice」「water」しかないんだ、へええ、という浅はかな読みしかできなかった。)

 

 著者の調査によると、ヨーロッパの作家(イギリス、アメリカ、フランスくらいまで)は顔の特長を書くとき、目・口・耳は描写するが鼻は無視するという。一方、

「(ベニスに死す」の主人公)アシェンバハは、散歩先のピザンティン風建築の斎場前で、やや唐突な風采の男を見かけた。マンが一個の暗喩(メタファ)として呼び出したこの男に、とくにひどい団子鼻という肉体的な「異化」の条件づけをおこなうのは、やはりかれ独自の、イメージの分節化の特徴をあらわしている。マンの創作的生涯の全域にわたって、われわれはいかに多種多様な鼻の描写を見出すことだろうか。マンにおいて人間の鼻は、その文学的な記号の主要なひとつである。『ブデンブローク家の人々』に始まり最晩年の仕事にいたるまで、マンはくりかえし鼻に焦点をおいて、登場人物の性格づけのイメージを、分節化する(大江健三郎「小説の方法」岩波書店P101)」

という指摘がある。トーマス・マンに特有なのか、ドイツ人の慣習・文化によるのか、どうだろう。ただ注意するのは、「高い鼻」「鷲鼻」はユダヤ人の特長とされ、反ユダヤ主義ヘイトスピーチに使われてきた。リベラルな作家は鼻の描写を避けたとも考えられる。
 

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