odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

アガサ・クリスティ「カーテン」(ハヤカワ文庫) 作者死後に発表するはずだったポアロ最後の事件。過去の5つの殺人事件の見直しと私的制裁の是非。「そして誰もいなくなった」1939年を引き継ぐ。

 「ポアロ最後の事件」。もともとは作者死後に発表するはずであったが、存命中の1975年にでた。すぐに大評判になり、この国でもハードカバーで翻訳され、ベストセラーになった。漠然とした記憶だが、新聞に大きな広告が出たと思う。

f:id:odd_hatch:20200629092441p:plain

 ヘイスティングスは最初に手掛けた事件の場所である「スタイルズ荘」にポワロに招待される。久しぶりにあった親友の姿は彼を唖然とさせた。関節炎で車いすに乗っていて、心臓が悪くて時に発作を起こす。時間の過ぎるのはなんと早いこと。
 ポアロは過去の5つの殺人事件を示し、いずれも犯人がみつかっているが、実はX(エックス)なるものが主犯であるという。そのXがスタイルズ荘に来ている。未来に起こる犯罪を防止するために、ヘイスくん、調査に乗り出してくれたまえ、でも君はおっちょこちょいだから「真相」とXを告げるわけにはいかない。そういう謎めかしがあって、ヘイスティングスは何かを隠しているのが誰にもわかる捜査を開始する。
 スタイルズ荘は退役軍人夫婦の手に渡っていて、かつてのような豪華な接待はなくなりビジネスホテルのようになっていた。そこに暮らすのは、変人の科学者夫婦に、退役軍人に、何をしているのかわからない有名人に、鈍重な男たち。誰もが「落伍者みたい」というのは30代独身の女性。夫婦ものは仲が悪そうであって、ほかの人たちは辟易としている。そのうえヘイスティングスの娘(妻は死亡)は一回り以上上のプレイボーイに熱を上げているようで、父は娘が気がかりであり、時に叱責もしてしまう。なので、ポアロに指摘されるまで、任務を忘れてしまう。そして、スタイルズ荘の管理人がウサギと思って銃を撃つと妻にあたり、科学者が研究中の毒薬を妻がうっかり飲んで死亡する。何ごとかを目撃した鈍重な男がポアロに通報するつもりでいたら、密室になった自室でピストル自殺していた。いずれも、事故や自殺で結末が付き、ポアロが提示した5つの殺人事件と同じような結末に至る。
 解説によると、本書(とマープル最後の事件「スリーピング・マーダー」)は1942年の「書斎の死体」の後に書かれて、いずれも「死後公開すべし」として保管されていた。執筆のタイミングと発表時期がずれたために、作品の背景があわなくなった。風俗や習慣がそうであるし、父と娘の対立はとても古風。老年期の理解は不足(なのでできないことをできるとしてしまう)。1970年代の「象は忘れない」「復讐の女神」ではポアロやマープルの世代はむすめや孫の恋愛には介入しない。身体の衰えは気力の衰えとなり、他人に介入することはほんどない。
 本作の趣向は、過去の5つの殺人事件の見直しと私的制裁の是非。その点で「そして誰もいなくなった」1939を引き継ぐもの。作中では安楽死の議論があり、肯定と否定の意見がいずれもあった。そこでは本人意思よりも他者介入や判断の問題が優先されていて、上の犯罪の私的制裁にかかわる主題となった。また、未来の犯罪の防止という趣向は「ゼロ時間へ」1945でより精緻に展開される。その主題と、老年の体力気力の衰えに齟齬があり、どうもうまくいっていないなあ。
 そのうえ、もうひとつ一人称の手記という問題。思い込みが激しく感情的な語り手の手記はどこまで信用できるのか。そういう語り手は「アクロイド殺し」にいたし、ここではむしろ「そして誰もいなくなった」を思い出したほうがいいかもしれない。ポアロは過去の5つの殺人事件の延長に現在の事件があるとおもっているが、それが正しいという保証はポアロが言及していることにしかない。むしろ作品の現在において、よりリアルな動機があるとも考えられるのではないか。犯人の自白以外に証拠がない状態でそれが正しいという保証はどこにあるのか。「犯人はあなただ」といわれた語り手が正確に記述している保証はどこにあるのか。なので、西村京太郎「名探偵に乾杯」(講談社文庫)のような読み直しも可能になる。そういう方向で、「ポアロさん、あなたは間違っています」という文章もどこかにありそう。
(それは「そして誰もいなくなった」もおなじなのだが、そのような疑いをさしはさむ余地が生まれないのは、文体と構成そのものにある。古風な探偵小説のフォーマットでかかれた「カーテン」では、スキだらけになってしまう。)
 発表直後に出た感想をいくつか思い出したが、そのなかでこの作品をお蔵入りにしたのは駄作だったからではないかというのがあった。なるほどそうとも言えるなあ、と思えるのは、執筆同時期の他の長編に比べて劣ること数等というできだから。