odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

本田良一「ルポ・生活保護」(中公新書) 日本では江戸も明治政府も「隣保相扶」で貧困や公共サービスにはまったく関心・興味をもたず、常にコストを惜しんで、公の責任を放棄しようとしてきた。

 日本では1970-80年代に貧困の話を聞くことはとても少なかった。まったくなかったわけではないが、メディアが報道することがなかったからだろう。佐和隆光/浅田彰「富める貧者の国」(ダイヤモンド社)が2001年にでたとき、「貧者」は景気回復が進まず、公共サービスが貧弱な日本のメタファーだった。それが21世紀になって、日本の最も大きな問題になった。生活保護を受けられず餓死したり、家をなくした人が急増したり。しかし社会保障費は削られ続け、最後のセイフティネットである生活保護が国会議員にバッシングされている。そこで21世紀の生活保護制度の現状をみる。

第1章 生活保護とは何か ・・・ 生活保護は事後救済であり、1.国家責任の原理、2.無差別平等の原理、3.最低生活保障の原理、4.補足性の原理が必須。日本の社会保障制度は西洋より遅れてできた。明治に救済法ができたが、当時の「隣保相扶」の考えが支配的。敗戦後は社会保障制度ができたが、財源不足・対象者増加などで上記の原理が損なわれている。
自民党公明党が「自序共助公助」といったり、厚労省が「年金とは別に二千万円必要」などというのは、釈迦保障制度をなくして、明治初頭の「隣保相扶」に戻したいということだ。浮いた財源は軍事力や国威発揚イベントに使いたいのだ。)

第2章 母子家庭と貧困の連鎖 ・・・ 母子家庭の貧困率が高い。要因は、収入水準が低い、多くが低学歴、政府の政策によって貧困率が上がる、社会保険その他の負担が大きい、政府負担が低いために教育費が大きい、奨学金負担が大きい。その結果、貧困が継承され連鎖が続く。
(多くは母子家庭の貧困を当人の「自己責任」とするが、国と男の無策・無責任・放置に大きな原因がある。)

第3章 こぼれ落ちる人々 ・・・ 病気やけがで就労できなくなる人。最後のセイフティネットが生活保護だが、厚労省自治体の指導で「水際作戦」がとられ、受給できない事例が多い。しかも、プライバシーがオープンにされ、財産処分を求められ、申請届をださないように指導されるなど、受給者の心理的嫌悪感(スティグマ)が強い。
(水際作戦の結果、餓死者がでたりしている。日本の生活保護の捕捉率は20-30%と先進国で最低。

第4章 格差と貧困 ・・・ いっぽう、就労者の収入が生活保護より低い場合が多発。貧困はあってはならない価値基準であり、人と社会を破壊する。
(しかし2006年の竹中平蔵総務相は「日本に貧困はない」と発言し、貧困者調査を行わない。)

第5章 負担ではなく投資 ・・・ 生活保護の問題は、1.自治体負担が増加(国の財政削減でまっさきに削られる)、2.雇用の不足、3.失業給付の不足、4.医療費負担増加(生活保護費の半分が医療費)、5.税と保険料の負担大。国の政策は「支給は少なく負担は大きく」。その被害者は勤労者。正解保護は最後のセイフティネットであるが、そこに問題があるのはその前の社会保障制度が不足・ダメなことが押し付けられているから。生活保護の受給期間は過半数が3年未満。
(適切な支援をするのは生活保護問題の解決になる、勤労できるように促すことができる。)

第6章 自立支援プログラム ・・・ 生活保護受給者にはさまざまな支援が必要。そのためのプログラム。自立には、日常生活・社会生活・就労(ないし準就労、社会参加など労働能力によって変える)。しかし実施するには、福祉事務所のリソース不足、自治体の財源不足などがある。社会や国は「惰眠化」を恐れるが、実態に即していない。支援プログラムには市民ボランティアの参加も大事。

第7章 どう改革するか ・・・ さまざまな制度の改革。最低年金保障、最低賃金、教育保障、住宅保障など。国の縦割り行政と「財源不足」名目の社会保障費削減が最大の問題。いっぽうで社会起業、ボランティアなどの市民参加も必要。

 

 本書にでてこない視点のひとつは、差別。生活保護受給者(日本人、外国人の国籍を問わす)へのヘイトスピーチがメディアやネットで流され放置され、行政も差別に加担することがある。
小田原ジャンパー事件

ja.wikipedia.org


 日本では江戸も明治政府も「隣保相扶」で貧困や公共サービスにはまったく関心・興味をもたず、常にコストを惜しんで、公の責任を放棄しようとしてきた。その際に「惰眠化」を口実にしている。かつては企業が政府の行わない福祉を行ってきたが、1990年以降の不況は企業から余裕をなくしている(加えて、1990年代の銀行の貸しはがしの経験があり、金融に資金を頼れなくなり、内部留保をためていることが理由。あわせて法人税を下げたことで、節税のために従業員に金を回す必要がなくなったため)。結果、病気、けがなどの理由で収入が途絶えたときに、すぐに貧困(これは相対的なものではなく、生活が成り立たないという絶対的な基準がある)に陥る。以後の説明は本書で補完。
<参考エントリー>
2011/06/13 橘木俊詔「企業福祉の終焉」(中公新書)

 そうすると、貧困にどう対処するかということになるが、アプローチはいろいろ。直接貧困者支援にさんかするのもいいし、行政や政治家に働きかけるのもいいし、政治家有名人がやっているデマ拡散に反論するのもいいし、路上の生活保護バッシングに抗議するのもよいし、さまざまな支援プロジェクトに参加したりカンパしたりするのもいいし・・・。自分の得意なこと、やりやすいことからやるのがいいだろう。自分には力がないと思い込んで、無関心で放置するというのがダメ。人には一人分の力があります、無力ではない。

 

 

odd-hatch.hatenablog.jp

岩瀬大輔「生命保険のカラクリ」(文春新書) 個人の最適を図る生命保険より、国民全体の最適をめざす健康保険制度が充実しているほうが重要で有益。

 2009年にでた本書で、著者は生命保険に加入するポイントを書いている。生命保険の目的は、死亡後の配偶者他係累の保障、医療保障、貯蓄の3つ。収入や体調などにあわせて適切なものにしよう(詳細は本書で)。最後の貯蓄は「金利が上がってから」としている。出版後、金利は上がっていないどころかほぼゼロなので、生命保険を貯蓄目的にするのは無駄だというわけだ。実際、自分はすでに長年契約していた生命保険を見直して、死亡時と貯蓄をなくし、医療保障分だけを支払うようにしたので、本書のよい読者(すなわち保険会社のよい契約者)とはいえない。
 著者によると、日本の生命保険にはいくつもの問題点がある。ひとつにまとめると掛け金が高く、仕組みが複雑であるということだ。そのために、生命保険会社の利益は大きいのであるが(バブル時代には日本の会社が世界のトップ10のうち3つを占めた)、消費者のメリットはとても少ない。大きな問題は、支払う保険金が会社の維持に使われ(最大時50万人といわれる営業)、その会社は投資が下手であり、市場が閉鎖的であって古い慣習が残っている。端的には競争に乏しく、閉鎖的で、企業のコンプライアンスが行われていない。日本の経済が失速した21世紀になると、保険金の不払いを起こす企業が出たり、経営破綻したりするところも出ている。少子高齢化の人口構造の変化に対応していないのも。
 そういう指摘があって、21世紀には規制緩和が行われ、新興企業や外資も参入するようになった。それでも生命保険業は改善が不足するということで、著者は新しいベンチャーを設立する。これまでは体面の営業を行ったのであるが、ネットで完結できるようにしたのだ。こうすると、人と物のリソースをなくすことができ、同じ内容の保険を安い掛け金で販売することができるのだ。本書が書かれたのは企業設立後1年半後のこと。若々しい意欲が充溢している。それから10年を越えていまだに営業を続けているのだから、まずまず成功なのだろう。重畳重畳。
 生命保険も気にかかるのであるが、それよりも国の健康保険が充実していることが重要。たとえば入院の費用では一定金額を超える高額であれば高額医療療養精度があって、一時的に建て替える必要はあっても、かなりの部分を健康保険が負担してくれる。それでもカバーできない部分を民間の生命保険がおぎなうことになる。とすると、優先するのは国の健康保険制度であって、いろいろ問題があってもこの制度を継続することに注力したほうが良いと考える。なので医療経済学や公共経済学の勉強は必要。
 つらいのは日本の経済が失速し、年金の運用に失敗している現状では、年金受給資格を持つ年齢になっても年金だけでは生活維持に不足がある。2019年の財務省の試算では2000万円以上の資産が必要とされているのだ(麻生財務大臣(当時)は否定)。日本の労働人口の賃金の中央値が300万円という時代に、これだけの資産を年金受給資格年齢までに蓄えることができるのか。そのようなお寒い状況で、生命保険はビジネスとして成り立つのか。業界や仕組みを知るよりもこちらのほうが気になる。
 なお、本書はPDF版(全編)を無料で提供した(発売当時)。何と太っ腹と思ったが、著者としては多少印税が減っても、本書によって立ち上げたばかりのサービスの加入者が増えれば、会社の利益が増え収入増になると考えたに違いない。はいらなかった印税分は広告宣伝費と思えばよいわけだ。これも本のビジネスが代わってきていることの証だろう。

 

ガボリオ「ルコック探偵」(旺文社文庫)-2 1860年代の殺人事件ではすでに科学的捜査が行われている。ホームズ譚によくあるギミックはすでに出そろっていた。

 前回から干支をひとまわりして再読。

odd-hatch.hatenablog.jp


 150年前の小説なので、ある程度詳しくストーリーを紹介することにしよう。


 パリのうらぶれた居酒屋で深夜、銃声が聞こえる。駆けつけた警察官のみたものは、3人の男の死体と銃を持った一人の男。容疑者は自分が行ったことだと説明した。誰もがありふれた強盗殺人事件と考えた。しかし、野心に燃える若い警官はその事件の背後に隠されたことがあるのではないかと考える。足を折って警視総監は療養中になったので、代わりを務める代理総監といっしょに捜査を始めたが、容疑者に裏をかかれてばかり。はたして若い警官ルコック氏は犯人を突き止められるか・・・
 ときは18XX年2月20日午後11時。発表は1869年だが、舞台は1840年代か。このころの時代の変化はゆっくりだったので、2-30年の差異は小さい。そのかわりに、容疑者の口にする「ワーテルローの戦い(1815年)」のリアリティが増す(第2部で1815年から20-25年ほどたってから事件がおきたとの記述がある)。殺された三人の男は捜査の対象から外す。まずルコックは現場から出ていく雪の上の足跡をおい、容疑者が複数人と会っていたことを見出す。そして足あとを石膏でとって証拠に残す。ふたたび現場に戻ると、ダイヤの耳飾りを見つけ(初動捜査でみつからないの? いやいや電気が通じていない深夜の部屋でカンテラの明かりだけで捜査したから仕方ない)、靴の泥を採取する。収監した容疑者はサーカスの道化で西欧中の放浪者、「メイ」という名しか持っていない(国民国家の構成員から外れる人が多数いて、社会の差別対象になっていたことがわかる)。頑強に口を割らない容疑者をルコックは放免して尾行することにした。数か月前までドイツ(?)にいたメイはパリの裏道に詳しく、ルコックらはセルムーズ侯爵の屋敷で見失ってしまう。失意のルコックは引退した名探偵タバレ先生に相談に行き、天啓のごとき先生の推理に耳を傾ける。
 「雪の上の足跡」「石膏による足跡保存」「塀に残った衣装の切れ端」「ダイヤの耳飾り」「靴の泥」「パンに仕込んだ手紙」「本を使った暗号」という探偵小説に繰り返し登場するアイテムが、世界最初期の探偵小説に登場していることに驚こう。こういう科学的捜査が始まったばかりで、密告による逮捕と自白強要という公安警察が人権を配慮する保安警察に変わりつつあったのだ。それが市民には新しい。
ジョン・ディクスン・カー「火よ! 燃えろ」(ハヤカワ文庫)
 事件そのものにはトリックはない。代わりにあるのは、一人二役トリック。ある人物がこのような存在と役回りだと思ったのが、実はもうひとつの肩書と役職をもっていた。これは探偵小説が創始したトリックであるのではなく、昔からある貴種流離譚を変形したもの。不遇なもの、貧乏なものが実は・・・というひっくり返しが驚きになり、似たような境遇にある不遇なものや貧乏なものの共感になった。それがここでも再現する。
 現在の事件は、およそ20年前の「ワーテルローの戦い」に端を発し、現在の境遇にかかわる冒険譚になるのだ。これは少し前のデュマ「モンテ・クリスト伯」と同じ構造になるはず。第1部「捜索」が終わったところで、道化に身をやつした侯爵、現在の検事、ホテルを経営する年増の女性と役者がそろい、彼らの過去が語られる。この構成はドイル「緋色の研究」「四つの署名」などで踏襲される。

 冗長な展開であっても、リーダビリティは悪くないなあと思っていたら、解説によると翻訳のもとは1960年に出た流布本。「巧みに刈り込みの手を入れた圧縮版」。同時期に再刊された完全版は上下二巻らしいから、ほぼ半分に縮めたのだろう。そういう編集の手があるから、今の読者でもよむことができるわけだ。刈り込みの手を入れたといっても文章を変えているわけではないだろう。この点が、言文一致以前の文体(1890年代以前)をそのままでは読めない日本人読者とは大きな違い。現代語訳でないと、明治10年代の政治小説中江兆民も読めないものなあ。日本語の使い手は読む能力が落ちてきたと思う(自戒をこめて)。

 


エミール・ガボリオ「ルコック探偵」(旺文社文庫)→ https://amzn.to/3vvNuRw https://amzn.to/3VpfPne https://amzn.to/3VsNmwS
エミール・ガボリオ「バティニョールの爺さん」(KINDLE)→ https://amzn.to/3x3P1it
エミール・ガボリオ「ファイルナンバー113:ルコック氏の恋」(KINDLE)→ https://amzn.to/4advvya
エミール・ガボリオ「オルシバルの殺人事件」(KINDLE)→ https://amzn.to/4amwMmB
エミール・ガボリオ「女毒殺者の情事」(KINDLE)→ https://amzn.to/3TtkPo7
エミール・ガボリオ「他人の金」(KINDLE)→ https://amzn.to/3VrhjNW


 Monsieur Lecoq はAmazon.co.jpで購入できる。
ペーパーバック

www.amazon.com


amazon.comでも。ハードカバー17ドル、ペーパーバック4ドル(送料除く)。

 

KINDLE版。仏語版(左)と英訳版(右)

  

 

2022/05/10 ガボリオ「ルコック探偵」(旺文社文庫)-3 1869年に続く