odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

ガボリオ「ルコック探偵」(旺文社文庫)-2 1860年代の殺人事件ではすでに科学的捜査が行われている。ホームズ譚によくあるギミックはすでに出そろっていた。

 前回から干支をひとまわりして再読。

odd-hatch.hatenablog.jp


 150年前の小説なので、ある程度詳しくストーリーを紹介することにしよう。


 パリのうらぶれた居酒屋で深夜、銃声が聞こえる。駆けつけた警察官のみたものは、3人の男の死体と銃を持った一人の男。容疑者は自分が行ったことだと説明した。誰もがありふれた強盗殺人事件と考えた。しかし、野心に燃える若い警官はその事件の背後に隠されたことがあるのではないかと考える。足を折って警視総監は療養中になったので、代わりを務める代理総監といっしょに捜査を始めたが、容疑者に裏をかかれてばかり。はたして若い警官ルコック氏は犯人を突き止められるか・・・
 ときは18XX年2月20日午後11時。発表は1869年だが、舞台は1840年代か。このころの時代の変化はゆっくりだったので、2-30年の差異は小さい。そのかわりに、容疑者の口にする「ワーテルローの戦い(1815年)」のリアリティが増す(第2部で1815年から20-25年ほどたってから事件がおきたとの記述がある)。殺された三人の男は捜査の対象から外す。まずルコックは現場から出ていく雪の上の足跡をおい、容疑者が複数人と会っていたことを見出す。そして足あとを石膏でとって証拠に残す。ふたたび現場に戻ると、ダイヤの耳飾りを見つけ(初動捜査でみつからないの? いやいや電気が通じていない深夜の部屋でカンテラの明かりだけで捜査したから仕方ない)、靴の泥を採取する。収監した容疑者はサーカスの道化で西欧中の放浪者、「メイ」という名しか持っていない(国民国家の構成員から外れる人が多数いて、社会の差別対象になっていたことがわかる)。頑強に口を割らない容疑者をルコックは放免して尾行することにした。数か月前までドイツ(?)にいたメイはパリの裏道に詳しく、ルコックらはセルムーズ侯爵の屋敷で見失ってしまう。失意のルコックは引退した名探偵タバレ先生に相談に行き、天啓のごとき先生の推理に耳を傾ける。
 「雪の上の足跡」「石膏による足跡保存」「塀に残った衣装の切れ端」「ダイヤの耳飾り」「靴の泥」「パンに仕込んだ手紙」「本を使った暗号」という探偵小説に繰り返し登場するアイテムが、世界最初期の探偵小説に登場していることに驚こう。こういう科学的捜査が始まったばかりで、密告による逮捕と自白強要という公安警察が人権を配慮する保安警察に変わりつつあったのだ。それが市民には新しい。
ジョン・ディクスン・カー「火よ! 燃えろ」(ハヤカワ文庫)
 事件そのものにはトリックはない。代わりにあるのは、一人二役トリック。ある人物がこのような存在と役回りだと思ったのが、実はもうひとつの肩書と役職をもっていた。これは探偵小説が創始したトリックであるのではなく、昔からある貴種流離譚を変形したもの。不遇なもの、貧乏なものが実は・・・というひっくり返しが驚きになり、似たような境遇にある不遇なものや貧乏なものの共感になった。それがここでも再現する。
 現在の事件は、およそ20年前の「ワーテルローの戦い」に端を発し、現在の境遇にかかわる冒険譚になるのだ。これは少し前のデュマ「モンテ・クリスト伯」と同じ構造になるはず。第1部「捜索」が終わったところで、道化に身をやつした侯爵、現在の検事、ホテルを経営する年増の女性と役者がそろい、彼らの過去が語られる。この構成はドイル「緋色の研究」「四つの署名」などで踏襲される。

 冗長な展開であっても、リーダビリティは悪くないなあと思っていたら、解説によると翻訳のもとは1960年に出た流布本。「巧みに刈り込みの手を入れた圧縮版」。同時期に再刊された完全版は上下二巻らしいから、ほぼ半分に縮めたのだろう。そういう編集の手があるから、今の読者でもよむことができるわけだ。刈り込みの手を入れたといっても文章を変えているわけではないだろう。この点が、言文一致以前の文体(1890年代以前)をそのままでは読めない日本人読者とは大きな違い。現代語訳でないと、明治10年代の政治小説中江兆民も読めないものなあ。日本語の使い手は読む能力が落ちてきたと思う(自戒をこめて)。

 


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2022/05/10 ガボリオ「ルコック探偵」(旺文社文庫)-3 1869年に続く