1957年初出。その時代にタクシーに乗っていたロンドン警視庁の警視が物思いにふけっていたら、タクシーは馬車に、街灯はガス灯に、変化していた。なんと1829年にタイムスリップしていた(というハイカラなことばをカーは使っていないが)。この国に当てはめてみれば、神津恭介(@高木彬光)が平賀源内(@久生十蘭)の時代に行ったということか。この国だと1870-90年代の開化で風俗から習慣までガラッと変わってしまったが、イギリスでは社会の差異はそれほど際立っていないように見える。もちろんチェビアトの目に映る貧困者、下層階級の生活はひどいものではあるのだが。まあ、エンターテイメントの小説なので、社会の矛盾や差別を書き込んでいないことに文句をつける必要はない。
主人公チェビアトは38歳。その名前と所属はそのまま19世紀初頭のロンドンでも通用し、たぶんできたばかりで社会的な認知のない警察を社会のシステムの一部であることを認めさせようとする努力をする。犯罪捜査が一段低い仕事と思われていた時代(そりゃそうだ、敵討ちに決闘が日常茶飯であれば警察の居場所は薄い)、警官の意識も低く、劣等感もあるころ。なので、小説真ん中の大立ち回りのあとで警官が背筋を伸ばすところは感動した。
さて、3つの物語が進む。まずは、1829年のロンドンに降り立ったチェビストが31歳の未亡人フローラ・ドレイトンに一目ぼれ。貞節であろうとしながら、殺人犯ではないかと疑われるので、次第にチェビストに魅かれていくまで。歴史をこえた恋愛であって、さて、この恋愛は成就するのか。そういうテーマのファンタジーに「ジェニーの肖像」「トムは真夜中の庭で」があったな。悲しくも美しく、心洗われる恋愛です。
この恋愛を邪魔するのが、フローラに横恋慕するホグベン大尉。かっと血が上っては無茶をして、剣を頼みにすごむものの臆病で徒党を組まないと行動できないという駄々っ子。身長6フィートをこえる大丈夫が軍服を着てすごむさまはなかなか見ごたえがある。チェビストとフローラの会話に割り込んでは足蹴にされ、決闘を申し込んで警察の中庭で大立ち回りの末柔道技で叩きのめされ、射撃で腕を競うとしてもチェビストの妙技にしゅんとなり、あげくのはてにチェビストとフローラを殺人犯として告発する。このめげない悪党の存在がこの小説の良いところ。映像化されたら、この役で主人公を食ってしまえそうなおいしい人物。というのも、チェビストがいささかスーパーマン的な無尽蔵の強さを発揮するので、はらはらどきどきの感情移入をするには冷たい人物だから。不可能状況での盗難に殺人があっても、その謎解きより、恋愛と悪党との戦いの描写が生きいきとしていて、これはやはり伝奇小説、歴史ファンタジーであるとみなせる。
犯罪に関することでいうと、チェビストが伯爵夫人のもとに派遣されたのが、鳥のえさが盗難にあったから、というのが、上記のように警察の威信や期待が低かったことの現れか。もちろんチェビストはえさが実は宝石の隠し場所であり、それが賭博場から闇の組織に流れていることをすぐさま見抜く。その直後に、廊下でであった伯爵夫人に身を寄せている娘が射殺される。電気もガス灯もない屋敷の内部でせいぜい蝋燭かカンテラしかないとき、あたりはまっくらであり、銃の発射音も聞こえなければ、硝煙のにおいもしないという状況。これもカーファンには懐かしく、「震えない男」「第三の銃弾」「死時計」「新透明人間」なででおなじみ。トリックよりも、面白かったのは捜査線上に浮かんだ宝石の故売屋でもある賭博場だな。ルーレットが最新の賭博で、よく知らないカード賭博があって(カーはカード賭博の描写が大好き、「四つの凶器」「赤後家の殺人」など)、軍人・貴族・ブルジョアに娼婦がたむろし、葉巻とブランデーの香りが立ち込める。ああ、映画「カサブランカ」のリックス・バーだ。あるいは「夜歩く」か「蝋人形館の殺人」。支配人ヴァルカン(禿頭の大男)の事務所で一対一で対峙。そこから起こる大騒動。ああ、これも映画の定番シーン。面白かった。
ミステリーとしてどうこうはさておき、ともあれ異世界に紛れ込んだヒーローの活躍を楽しみましょう。カーにしてはわかりやすい悪党(ホグベン大尉とヴァルカンがいい味を出している)がでてきて、ストーリーもシンプル。バロウズ「ターザン」「ペルシダー」「火星」を近代イギリスに置き換え、ミステリを加えたようなものですな。これはお薦め。
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