1820年ころの出来事に取材した劇詩。参考文献のない状況で背景を確認すると、19世紀初頭のロシア貴族の中から発生した武装蜂起集団。彼らが武装闘争を試みる中で、大規模な検挙が実施される。首謀者の多くは貴族の息子のため助命嘆願によりシベリア流刑となる。その際に妻の多くが夫の流刑についていった。流刑先で死亡したものもいれば、のちに戻ることができたものもおり、何人かは20世紀初頭の革命家集団に参加している。たしかレーニン等も「デカブリストの妻」の一人をロシア革命の母と讃えていた。
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当時の女性観では、貴族の中から犯罪者が出た場合、離婚−再婚という道に行くものではあるが、このようなデカブリストの妻のように自分の意思でしかも自身は犯罪の対象者にはなっていないにもかかわらず流刑先に行くことは考えられなかった。とくに自分の意思を社会や家庭に向けて表現することは嫌われることでもあった。彼女らの不遇とその克己に感銘を受けると同時に、このような新しい女性の登場は画期的とされた。
物語はきわめて単純な構造で、妻の状況を夫の境遇の知らせ−悲嘆−意思表示−周囲の説得−克服−出発というもの。
人が意思を表示すること、その決意を変えないことが、作者をしてこの作を書くことになったのでしょう。説得を試みる人たちは入れ替わり現れる。周囲の説得が今と同じように、世間・地位・未来の境遇などを根拠にしている。世間は少なくともこの百年は変わっていないということか。その説得に対し、妻たちは意思を変えない。彼女らにとって決意は劇の中ではなく、その前に完了している。周囲の説得と主人公の決意の対決は、ヨナ記やヨブ記などの旧約聖書に顕著な主題であって、みかけではネクラーソフの作と聖書の親近性を感じてもいたが、このように考えていくと違うのでした。近代や現代の小説からすれば、主題は主人公の決意がどのように生じたのかであるのだろうが、そのような視点はない。だから、劇の進展が平坦になってしまうのだった。
このような強い女性は、黒澤明の映画に登場している。この劇も黒澤が映画化してふさわしいのかもしれない。「わが青春に悔いなし」の女性はここの妻のようだな。でも、上記のように物語が平坦すぎて映像化し得ないだろうが。
2003/01/11
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デカブリストのことは荒畑寒村「ロシア革命運動の曙」(岩波新書)で読んだはずだけど、あまりに前のことなので詳細は忘れました。
(追記:読みました)
2011/09/19 荒畑寒村「ロシア革命運動の曙」(岩波新書)