odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

プーシキン「スペードの女王」(岩波文庫)

スペードの女王 ・・・ 1820年代のモスクワの貴族たち。毎日祝宴に賭博にと遊びほうけているが、ある老嬢がうわさになる。彼女は若いころ、パリで名声をはくしリシュリューの声もかかるほどであった。しかし賭博で困窮した嬢はサン・ジェルマン伯に泣きこみ、トランプの秘密を得る。それからたいした金を持ってロシアに帰還したのだった。それを聞いたドイツ生まれの貴族ゲルマンは老婆に近寄る。老婆の召使をするリザヴェータの勘違いを生むほどに。そして老婆の寝室に押し込んで、秘密を聞き出そうとすると、老婆は死亡する。その夜、ゲルマンの元に老婆の幽霊が現れ、トランプの秘密を伝えた。「3」「7」「1」の順に貼れというのだ。そしてゲルマンは一世一代の賭けに打って出る・・・ああ、なんてうまい怪奇小説なのだろう。まだこのジャンルが開拓されていない時代だから、ストーリーは直裁すぎるほどに直裁で、途中のロマンスもまたラストシーンの悲哀を強めるために必要なのであった。文中、上記の二人に加え、メスメル、スエーデンボルグまでが現れ、このころに啓蒙時代の反動としての神秘主義ロマン主義が席巻したことを明らかにする。ついでに加えると、プーシキンの時代はデカプリストの乱の時代でもある。青年貴族が民衆のためにアレクサンドルの西洋化改革に反対してもいたのだった。これはそういう貴族の動揺を描いているのかしらねえ。書かれて200年に近いとなると、読者の届くのは、古典的な恐怖のみだ。
ペールキン物語 ・・・ 以下の連作短編集
1.その一発 ・・・ 騎兵連隊に奇妙な下士官シルヴィオがいた。かれは普通なら決闘に持ち込むような無礼を許したのである。彼が連隊を去るとき、「私」に秘密を伝える。かつて決闘をしたときにあとから打つことになったシルヴィオに拳銃を向けられた男は桜ん坊をしゃぶりながら平然としていたのだった。シルヴィオは彼に復讐するために無駄な決闘を控えていた。それから5年後、「私」はあるいきさつからシルヴィオのその後を知る。まるで江戸川乱歩の「吸血鬼」冒頭のような決闘譚。その後、ドスト氏が「悪霊」「カラマーゾフの兄弟」で決闘に潜む男の妄執を描いたのもむべなるかな。
2.吹雪 ・・・ ロシア人にとっては誇らしい1811年の冬。マリアとウラジミールは愛し合っていたが、その結婚を両親は許すはずもなかった。そこで駆け落ちを計画したが、決行の当日はひどい吹雪。ウラジミールは深夜の騎馬で道に迷い、到着したのは明け方。用意したトロイカは影もかたりもない。それから5年。ウラジミールは戦争で死亡し、マリアに新しい求婚者が現れる。マリアは結婚を拒んでいたが、求婚者の語る吹雪の夜の奇怪な出来事。
3.葬儀屋 ・・・ 顧客を求めて葬儀屋が引っ越す。隣家にはドイツ系ロシア人の靴屋。こいつが気さくのないやつで早速、パーティに招待してくれた。ドイツ系ロシア人の集まりで葬儀屋は一人ぼっち、しかも職をからかわれる。そこで葬儀屋、こいつらは引越し祝いには呼ばねえ、俺の葬儀した連中だけを呼んでやると啖呵を切る。その夜、葬儀屋の家には彼が棺を運んだ連中が骸骨の姿になって現れた。落ちで葬儀屋は娘を手元に呼び寄せるが、さて、彼は何をいうのだろうか。
4.駅長 ・・・ かわいい15歳の娘を持つ駅長、親切心をだして下級貴族の道案内に娘を使ったら、そのまま駆け落ち。老いた駅長は必死にペテルブルグまででかけ、下級貴族の家を見つけたが、けんもほろろ。失意の駅長はアル中で死亡。1年後、駆け落ち前の娘が気になった「私」は駅長の墓を訪れる。そこで男の子から消息を聞く。ストーリーはシンプル。特に心動かされるところはなかったが、当時(1830年代)は馬車で移動していて、それは「モンテ・クリスト伯」と同時代だったとか、この30年後のドスト氏の時代には鉄道が引かれていた(「白痴」「カラマーゾフの兄弟」など)のだなあ。急速な産業革命が進行したのだなあ、と話と関係ないことに感心してしまった。
5.偽百姓娘 ・・・ 地方の下級貴族の娘、退屈な生活に飽き飽きしていたので、百姓娘の格好をして領地で遊んでいる。そこで隣の貴族の息子と出会い、偽百姓娘の恋愛遊びをしているうちに、どちらも本気になってしまう。さて、娘の家に隣の貴族一家が訪問することになり、娘は変装遊びがばれないかと蒼ざめ、隣の貴族は馬鹿な貴族の娘との結婚話にあせる。息子は婚約破棄の話をつけに、貴族の娘の家を訪ねると・・・。どこかの民話にありそうな話だな。もう少し洗練すると、トゥエインの「王子と乞食」になるのかな。

 さて、1830年代、この国ではまだ黄表紙とか青表紙とかの古いスタイルであった時代に、とても近代的なストーリーを語っている。特長は、物語を語ることに徹して、作者の姿はほとんど見えないこと。すなわちセンチメンタリズムもニヒリズムも、自己陶酔も、自己嫌悪もなく、演説をする人物もいなければ、作者が弁舌を振るうこともない。読者はストーリーの流れにのっていればよい。こういうスタイルの物語がほぼ文学の伝統のないロシア語という言語で書かれたことが重要なのだろう。そういう歴史とか民族意識をもたない現代の読者としては、なるほどまだ稚拙ではあっても、バルザックのようにおかしな神学の演説を聴く必要もなく、シェリー夫人のように疑似科学の議論を拝聴することも不要であるのであれば、たしかにこの若くして亡くなった作者のものは現代的であって、再読できるものであるということを認識しておけばよい。
 プーシキン以前にもロシアには詩人、劇作家はいたけれどローカルな存在であって、国内の爆発的な人気と世界的な名声を獲得した人はこの人を嚆矢とする。以下は妄想なので根拠あるものと思わないように。ロシアに近代文学を確立するに当たって、この人はオリジナルを確立したわけではなかった。すでに他国に存在している怪奇小説やゴシックロマンスのフォーマットを移植した。それをロシアの言葉で語ったというところ、およびロシアのフォークロアを取り入れたということ。そういう模倣と混交から小説が始まったのであった。この国でも、二葉亭四迷ツルゲーネフの翻訳で口語文体を作ったとか、島崎藤村が「罪と罰」をいただいちゃって「破戒」を書いたりしているので、別に称賛されることでもけなされることでもない。

  


うっかりしていたが、チャイコフスキーが「スペードの女王」をオペラ化していた。