odd_hatchの読書ノート

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尾崎俊介「紙表紙の誘惑」(研究社)

 本はたしかにそこに書かれている内容にほとんどすべての価値があると考えることもできるだろう。ビジネス書やハウツー本なんかは目的とする情報を入手し、それを活用し、情報が古くなれば、躊躇なく廃棄することができる。そういう実用的な目的のものばかりであれば、古書価など上がるはずはないのだが、読書という体験をすると、読んでいる間の付き合いによって、本というものに感情移入をしてしまい、それがほとんど自分の一部のように感じられるようになってくる。とくに若い頃に乏しい小遣いで買ったものなど、初めて自分の所有物になった(初めて自発的に物を購入した)という思い出といっしょになって、捨てることなどできない。たとえば新潮文庫ドストエフスキー罪と罰」2巻(米川正夫訳)などは、それを購入した書店のこともふくめて強烈に印象に残っている。
 そういう書物へのフェティシズムは多かれ少なかれ本好きは持っているものであって、この著者はアメリカ文学を専攻する学者であるので、アメリカで作られたペーパーバックという廉価本に情熱が傾けられる。そこで明らかになることは、ポー以来のアメリカのマスコミの歴史であり、本が一部のアッパークラスのものからロウアークラスに流通が拡大していく社会史であり、軍隊がメディアを変えていくという事件史である。それらの話も面白いのであるが(自分はそちらに興味を引かれた)、著者はペーパーバックの表紙を描いた無名の画家にも興味を引かれ、彼が若い頃に出会ったペーパーバックの表紙を描いた画家を調査する(通常、画家はこういう仕事にサインをいれないし、クレジットもされないので、誰が書いたのかわからない)までにいたる。結局、画家自身はなくなっていて、刊行に携わった人もあまりに昔のことで確証を得るまでにはいかない。そのような情熱と探偵小説的興味があって、いっきに読みきってしまった。(荒俣宏「稀書自慢、紙の極楽」(中央公論社))には、SFのペーパーバックの表紙画家を調べる話が載っていて、似たような興味と調査をする人はいるものだと、その無償の愛情と行動力に感動する。)
 荒俣宏渋澤龍彦みたいに書物に関する書物を書く人もいて、それを読む人もいる。あまりに書痴がすぎると、変人奇人のたぐいになって、こちらとしては引いてしまうことにもなりかねないが、この著者はまあ常識的なところで納まっている。とはいえ、ペーパーバックだけで数千冊をもっているのだろうなあ。絶対に一生かかっても読みきれないぜ。自分もたぶん読むことのない本を多数持っているので、ちょっと心配してしまう。
2002/10/04

 このあといろいろあって、約3000冊を処分した。CDやDVDなども数百枚を売った。「所有」する欲望をあきらめることはできないわけではない。さらに、書籍を自炊してPDF化することにより、ますます所有する本は減っている。吉田秀和「LP300選」にあるように、300冊の本と300枚のCDだけで十分という状況になりたい。そのとき6畳一間で暮らせるようになるだろう。最終的にはどちらもゼロにしたい。その代わり、デスクトップPCにノートPCに外付けHDDに電子書籍リーダーにスマートフォンタブレットPCにという具合に、機器が散乱しているのだろうが。
2011/04/26