odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

荒俣宏「帯をとくフクスケ」(中公文庫)

 美術でもアートでもなくて、「画像」を読みましょう、というのが主題。美術やアートだと、(1)作家性がまとわりついて作者の生涯や思想が図を見る楽しみを奪う、(2)交換価値(端的には販売価格だ)が図の価値になってしまい図を見る楽しみを奪う、あたり。なので、美術やアートに分類されない絵(それを「図像」と呼ぶ)を見ることに徹底的にこだわることにしようというのが本書。したがって、取り上げられるのは、雑誌の挿絵、博物学図鑑の挿絵、引き札、紙幣、マンガなどなどのまずは「美術評論」の対象からこぼれ落ちたものばかりとなる。ちなみになぜ「フクスケ」なのかというと、博物学図鑑では、自然の驚異を発見する行為=好奇心と自然の叡智を女神ヴィーナスが被ったヴェールを開くこととして表現してきたが、それをこの国の場合に当てはめると福の神フクスケの裸身をみることである、とみなしたから。この種のみなしとか絵解きとかは、古今東西の図像を読み解くときのキーワードになってくる。すなわち、図像には必ず文章の来歴があるのであって、古の人は図を見ることはすなわち物語を読むことであった。それが時間がたつにつれ、来歴の物語の由来がわからなくなり、珍奇な図像になってしまい、意味を失ってしまった。それが図像の価値を貶める原因になったということになる。

 さて、そうやって読み取った結果はどれも面白いのだが、とりわけ印象深いところを紹介すると、
・水中の生物を生きた状態で描くのはなかなか難しかった。ガラスの水槽が一般的になるまでは、干物か陸に上がった状態として描いた。水槽と水族館ができるようになって、水中を描くことができるようになる。そのとき、西洋では書く人=見る人の視点と対象(魚とかクラゲとか)の間に何か媒質があることをかならず表現した。そのてん、この国の場合は、空白でもって空間が異なることを表現した。ここが面白いと思ったのは、アリストテレス以来西洋には「真空嫌悪」という考えがあったということと、プトレマイオス以来宇宙は密度と厚みの異なる層の重なりでできているという考えがあったこと。まえに、スピノザの「デカルトの哲学原理」を読んだことがあるが、そこでは物質が空間を移動することを七面倒くさい説明をしているのにうんざりしたものだった。すなわり四方に延長する物質が移動するには移動先の空間を押しのけることが必要であり、では押しのけられた空間はどうなるかというと別の空間を押しのけ、さらに…の結果延長する物質のあった空間が押しのけられた空間で埋められるのであって…という具合。こんな面倒な議論をしなければならない西洋の真空嫌悪が図像の表現にもあったことに感動した。パスカル「科学論文集」
・桃太郎とか引き札の七福神などが積んでいる宝の山はいったい何か、貨幣や金の延べ棒、証券などの近代資本主義の資産は描かれず奇妙なものが書かれている。蓑や笠、小槌、サンゴなど。いったいこれはなんだ、というわけで資料を渉猟していくうちに、金のなる木は近松のかいた物語の「柊」であるとか、七宝ないし八宝というのは中国起源であって、同じ発想の宝はインドにもあり、共通性を持っているようだ、などが明らかになる。まるでミステリを読んでいるような知的スリリングを味わうことができた。
・18世紀後半からエジプト図がさまざまに登場する。これはひとつはナポレオンのエジプト遠征に源があるが、それに人々が熱狂したのは、フリーメーソン結社が伸長していたとか(エジプトの神イリスなどを信奉する、メーソンが石工組合に源を発していて石造のピラミッドやスフィンクスに注目した)、ローマ・ギリシャより古い時代の叡智を発見した(ルネサンスがローマ・ギリシャ文明の復興を目指していたことに注目)などが反映している。ときにはモーツァルトの歌劇「魔笛」の舞台美術がエジプト図そっくりに描かれたなども発見する。ここらは通常の思想史、精神史では書かれない情報だ。
 などなど。1990年前後の著者の作品はどれも知的好奇心を満足させるおもしろいものばかり。