odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

ホルヘ・ルイス・ボルヘス「砂の本」(集英社文庫)

 集英社文庫版は「砂の本」と「汚辱の世界史」の合本。このエントリーでは、13の短編からなる「砂の本」を読む。1975年初出。

他者 ・・・ 1969年、ボストン近郊ケンブリッジで、懐かしい歌の一節をうたっている青年がいた。70歳の「わたし」は青年にこえをかける。邂逅にならずにすれ違いになり、無関心と忘却。わたしが常にわたしであることの不可能性。

ウルリーケ ・・・ 初老のコロンビア人の「わたし」がノルウェー人の若いウルリーケと「たぶん最後のアヴァンチュール」をする。一節ごとに一冊の書物のイメージや引用があるというブッキッシュな出会い。

会議 ・・・ 「あらゆる国のあらゆる人間を代表する世界会議」参加者による会議の盛衰の記録。あらゆる人間を代表するためにはすべての資料を、ということで参加者は書物を買い、図書館で調査する。その万巻の書物が燃やされる。主催者アレハンドロの名前の多義性に注意。

人智の思い及ばぬこと(ゼアラー・モア・シングズ) ・・・ 懐かしい「カーサ・コロラーダ」館が人手に渡り、改装されてしまった。人に聞き、つてを頼って、館に入ることができた。この「混沌への侵入者」はみたものを明晰に書き記す。謎はない、しかし神秘がある。この書物の引用でできた「迷宮」じみた館はとても魅力的。「ラブクラフトを偲んで」の副題があるように、かれへのオマージュになっている(たぶん「ダゴン」)。

三十派 ・・・ 初期キリスト教の異端派の報告文書。すべてを書く前に文書はなくなり、その先を読者は想像することになる(その時初期キリスト教と異端の知識が必要になりそう)。断片でありながら、なにもかもがあることの予感。

恵みの夜 ・・・ 知ることは思い出すことか新たな獲得なのかの議論の最中、ある老人が若い時の「ラ・カウティーバ」館のできごとを話す。生と性と死を一夜で体験した。強烈な体験も繰り返しのうちに、事実とも夢とも伝聞とも判別つかなくなる。

鏡と仮面 ・・・ クロンターフの戦い(1002年)ののち、戦勝した王が詩人に頌歌を依頼した。すばらしい作品をつくる。翌年、頌歌は破格になりルールを破る。翌々年、詩人は一行だけの詩を語る。「美を知ってしまったといあがなう罪、それは人間には禁断の恵みなのじゃ・今われらはその罪を購わねばならぬ」と王は語り、詩人に短剣を贈る。

ウンドル ・・・ 「もう、それはなにも語ろうとはしない」御言葉を聞くという決定的な体験ののち、聞き漏らした御言葉を探索する旅にでる。ここでは人生よりも言葉の方が巨大で深く、しかし全体を鳥瞰できない。あと、これは西洋中世の無文字社会の話とされる。作中の解説によると「ウンドル」は驚異との由。

疲れた男のユートピア ・・・ パンパで雨に降られたとき、一軒の家にで雨宿り。あらゆる言語が通じず、ラテン語で話をする。未来の人との会話。ひとつの言語(ラテン語)、国家の消滅、教育のかわりの懐疑と忘却術。手元に残された一枚のキャンパス。ここでは、そうだなウェルズ「タイム・マシン」、モリス「ユートピア便り」、スウィフト「カリバー旅行記」などのユートピアディストピア小説の遥かな反響が聞こえる。

贈賄 ・・・ ウィスコンシン大学の教授の椅子を目指す二人の教授。ひとりは相手の論文をひどくけなしていた。出発の前に、二人は会い、論文の意図を説明する。読み終えてからもう一度タイトルを見直す。ルヴェルやケメルマンなんかにありそうな話。

アベリーノ・アレドンド ・・・ タイトルの男が友、恋人を捨て引き込もる。数か月後、新聞を読んだ男が町にでて、兵隊にからかわれ、新しい大統領がだれかと尋ねる。テロリストの純粋形。

円盤 ・・・ 樵の家に「セッジェンスの民の王」と名乗る年取った男が訪れる。「オーディンの円盤」を持っていることが王のあかしという。樵はそれを欲しがった。民話の形を借りて、しかし奇妙な方に話がずれる。

砂の本 ・・・ スコットランド人の聖書売りがボンベイで買い取った「砂の本」を売りつける。始めも終わりもなく、開くごとに中身の変わる本。この魅惑的、蠱惑的書物を所有する恐怖。誰にも読み通せない本が図書館に収蔵されているという興奮。読むたびに変わる本、読み終えられない本ということで、アンデルソンインベル「魔法の書」@鼓直編「ラテン・アメリカ怪談集」(河出文庫)フィリップ・K・ディック「ニックとグリマング」(筑摩書房)ガブリエル・ガルシア=マルケス「百年の孤独」(新潮社)あたりを想起。

後書き ・・・ 収録作品の自己解説。ああ、おれの読みはこの解説にかすりもしていない。


 すでにいろいろ書かれているし、解説も詳しい(はず、読んでいない)ので付け加えることはないのだが、気の付いたことから。
・書を読むことの魅惑と恐怖。
・断片を示すことで、全体とか宇宙とかを暗示させる。
・さまざまな書物の引用(すぐにわかるものもあれば、ほのめかされるものもあれば)。無数の本からなるただ一冊の本。
・図書館、迷宮のイメージ(ただ、よく出てくる図書館には一冊の書物もないことがしばしば)。
・枠構造の物語。しばしば枠と絵が反転。
・ルヴェルやチェスタトンのような精巧に組み上げた物語を最後の数行で逆転したり、壊したり、破壊したり。よくある結末に収まることがめったにない。
 極度に圧縮されて乾いているような文体と、非歴史的な時間と、「奇妙な味@江戸川乱歩」風の作風で、ボルヘスの短編は容易に書けるような気分になる。トライしてみると、これがとてつもなく難しい。マネすることすら拒否する孤高の峻険。