odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

浜尾四郎「鉄鎖殺人事件」(春陽文庫)

 1933(昭和8)年作。浜尾四郎の長編は「殺人鬼」がハヤカワポケットミステリーや創元推理文庫で入手可能であるが、「鉄鎖殺人事件」は品切れになって久しい。調べてみたら1978年に購入したものだった。

 たしかに「殺人鬼」の創元推理文庫版の解説にあるように通俗的にすぎて、資料としての面白さしかない。それは昭和8年という時代と、作者37歳で弁護士開業中という事情がそうしたものだろう。
 気のついたことが2点。最初は、このような戦前の日本の探偵小説は、プロレタリア文学と表裏をなして、当時の不況を描いているということ。違いは、プロレタリア文学は労働者や農民などの側から見ているのに対し、探偵小説は資本家や官憲などから見ているということ。したがって探偵小説には貧者は女中・書生・通いの店員、無職者などして点描されるだけで、彼らの苦悩は描かれない。逆にプロレタリア文学では、没落していく資本家の苦悩は表れない。両者を組み合わせてみると、不況を軍需生産を軸にした計画経済でしか乗り越えられなかった昭和10年代の経済とその影響が見えてくる。
 もうひとつは、当時の探偵小説が家族の解体を描いたものであるということ。この時代の都市の家族はすでに核家族化が進みつつあった。もうすこしいろいろな小説を読み込まないと確定的にいうことはできないだろうが、漱石や鴎外が明治の終わりから大正のまんなかまで(1900-1910年代)に考えていた「家」という制度とそこからの自立という問題は当時では有効にはなっていなかったであろう。そのような強靭な「家」は都市ではなくなっていて、当時の民法が規定していた「家長」あるいは「父」の権威だけがあったのではないかと思う。この探偵小説でも、新興ブルジョアで惨劇が起こる。それは家父長の死から始まり、家族係累が次々と葬られていく。残された家族の恐怖。警察や民間探偵家は悲劇を食い止める役にならない。そして最後には家族の成員がいなくなり、家は廃屋になる。これは当時の新しい「家族」が感じている恐怖と同じではなかったか。家族に起こる悲劇は1920年から30年代にかけての探偵小説(アメリカ、西欧を含む)でさかんにかかれたものだ。それは、産業の変化、文化の大衆化、都市の拡大、賃金生活者の増加などの社会の変化に対応していて、家族が解体していく過程と一致した文学運動といえる。探偵は犯罪を暴くというより、壊れていく家族を見届ける司祭のような役を果たしているのではないか。そして多くの家族を舞台にした探偵小説の犯人が、独身の社会人であることにも注目してよい。彼らのような「新人類」を家父長やそれの周囲に居る人たちを恐怖させたのだ。彼らの自立が、すなわち家族の否定であるがゆえに。
 1970年代のモダン・ホラー小説ではさらに小さくなった家族(親と子)に襲い掛かる悲劇を描いている。そのとき家族を襲うのは、得体の知れないモンスターや異星人、性格破綻の異常殺人者だった。ここでは家族を襲い壊すのは外部=他者だった。上記の探偵小説の時代では、家族は内部から壊れていくものだったことと異なることに注意。

 青空文庫で主要短編と「殺人鬼」を読める。作家別作品リスト:浜尾 四郎


<追記>2017年10月に河出文庫で復刊。