odd_hatchの読書ノート

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椎名麟三「永遠なる序章」(新潮文庫)

 昭和23年のベストセラーとのこと。日本は占領下で、ドッジラインの財政均衡政策のおかげで景気は上向かず、農業の生産性もあがっていないので、誰もが貧しく空腹だったという時代。この小説の中でも、食料切符制とか頻発する停電とか、当時の状況が点描的に描かれている。作者は抽象的な思考をする人なので、読者が時代背景を調べることが必要になってくる。書かれてから60年以上がたっているのだからしかたがない。

 さて、主人公砂川安太(あんたと読む。読者は「アンタ、アンタ」と読むわけで、この頼りない主人公を自分自身と思うようになる、なるかな)。戦争から帰還して鉄道会社に就職した26歳。戦争の傷で片足が義足だし、そのまえは極貧の家庭で育った(両親と兄が結核で死亡している)ため結核もち。体調が悪いので、レントゲンをとってもらったら、心臓にも病が見つかりあと半年しか持たないといわれる(ついでにいうと当時の日本では抗生物質は高価で入手できなかった)。そこからストーリーは始まる。安太はそれまでの不幸な生活ですっかりニヒリズムに漬かっていたのだが、奇妙なことにあと半年の余命と他人から宣告されたときからニヒリズムを克服したかのように見える。どのような心境の変化や悟りがあったのかは書いていない。とにかく、彼は死亡宣告以来、いつもにこにこと微笑を浮かべ、他人が彼に向ける悪態とか告げ口なんかを従容とうけながしてしまうことになる。
 対照的なのは、安太の戦争中の軍医・竹内銀次郎(きしくも黒澤明「天国と地獄」の主人公と同じ名前)。彼は安太よりも積極的なニヒリストで「死にたい」といって、仕事もせずに引きこもっている。それでいて、腹が減れば安太を訪れ、ただ飯をおごらせ、妹を働かせてその給金で生活し、あるとき妹を強姦するまでのことをする。安太にそれを知られるが、改心もせずに、今度は共産党に入党する。こういう男はたぶんきっと多くいたはずで、「終戦」というショックがトラウマになり、その克服がなかなか難しかったとうことになるのだろうか(ここは個人的な意見なのだが、この国の人々は「終戦」というトラウマをあまりうまいやりかたで克服してこなかった。たぶん「なかったこと」にしたのだろうが、いまだにときどき時限爆弾のように「なかったこと」がそうでないことが暴露されている)。
 ストーリーの中心は死を宣告されたもののニヒリズムの揚期と死を宣告されていないもののニヒリズムの退廃あたりにあるのだろう。この二人は作中でどちらも死亡するのだが、その生を総括して「永遠なる序章」という。まあ、生の充実を経験することもなく、中途半端なところで断絶する生のアレゴリーというわけだ。たぶん著者はひとりの人間が経験できることは類としての人類の経験の総量には到底及ばない、そのような状況での生は常に未完結で可能性を残しながら中断されるものだというのだろう。その克服は集団ないし共同体に参加し、共同事業を行うことにあると考えているのだろう。キリスト教徒でありながら共産党のシンパであったという著者のアンビバレンツな感情というか立場が興味深い。
 さて、ここには二人の女性が登場する。ひとりは、竹内の妹で、竹内のわがままに愛想を尽かしながらも献身し、強姦され放火心中に巻き込まれ精神を病んでしまう。安太は微笑をたたえつつ、「直りますよ」というのが、さながらキリストの化身のように思えるのだが、安太の生はこの直後に途絶えることが読者にはわかっているので、安心できない。もうひとりは安太の下宿のおかみで、40代で二人の子持ちで醜い顔つきの生活者。安太はなぜかこの女(彼女も「疲れた」「死にたい」と口にしている)を欲望し、胸を触る同衾するなど積極的にかかわっていく。そうすると、この女はなぜか生きていく欲望みたいなものを見出していった。このあたりの心理の変換はよくわからないのだが、さもありなんとは思えたのだった。