odd_hatchの読書ノート

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椎名麟三「重き流れの中に」(新潮文庫)

 自分が読んだのは昭和55年(1980年)印刷の新潮文庫版。しばらく絶版ののち、同じ文庫で復刻され、いまはもしかしたら講談社学芸文庫で読める。なにしろ戦後文学はますます入手しにくくなっている(戦前の文学のほうがまだ入手しやすい)。

 椎名麟三の小説では、主人公は悲惨のきわみ、すなわち社会からのけものにされて、障害や疾病を持っていて、貧困にあり、希望や夢を持っていない。その日の生活にも事欠いている。しかも彼は行動して自分の状況を変えようとしない。状況を受け入れ、どのような苦難があろうと、「すべて良し」と受容している。にもかかわらず(ここが重要かな)、彼は内面の問題を抱えていない、むしろその逍遥振り、融通無碍ぶりがすがすがしさを感じさせる。現実の問題を内面に転換して幸福を得るというのは、必ずしもよいことではない(現実の問題を解決して、同じ苦痛をこれから受ける人を減らすことも重要。たぶん椎名はこのあたりの解決方法として共産主義をみていたのではないかしら。ここに収録されている3篇では共産主義、というか個人から集団への結集、みたいな問題はまだない)のだが、このようなものの見方をしているこの国の小説家は少ないので貴重だと思う。
 このような彼の主題は、この3篇が書かれた昭和22年という時代においてはアクチュアリティがあった。なにしろ国民全体が貧しく、基幹産業などなくてそれぞれが好き勝手な商取引をして生計を立て、ライフラインはほとんど機能しておらず、国に頼って生活することはすなわち餓死することであるという時代であったときに、人間の悲惨は誰にでも共通してみられるものであった。下記の3篇には、ぼろアパートや安下宿に寄宿する無学で生活に荒み、結果として奇妙奇態な行動をとるものがたくさん出てくるのだが、かれらは国全体が貧困にあるときはリアリティがあったのだった(たぶんドストエフスキー的といわれるのは彼らの存在のおかげ)。でも、それから10年たって貧困が急速になくなり、ライフラインがしっかりし、セイフティネットができるにつれて(もっとも重要なのは貧困がなくなって問題者を家が隔離できるようになったからかな)、椎名の問題は社会と適合しなくなっていった。1960年代にかかれた「懲役人の告発」(いずれ再読する)を読んだときに、昭和40年代の集合鉄筋アパートと安普請の建売住宅にすむサラリーマン(のおちこぼれ)が悩むというのはどうも時代からずれていると感じたものだった(と書いたが実は、昭和30年代初頭あたりを舞台にしているようなのだった。自分の記憶違い)。
 あと、この短編集の面白さは、小説的な起承転結を無視していること。主人公の「僕」「私」がアパートや下宿の住民を観察し、翻弄され、ともに落ちていく様を描くだけ。何かが解決したわけでもなく、何かが変わったわけでもなく(せいぜい人が死ぬ程度)、小説の舞台はそのまま永遠に続いていくだろうと思わせる。その外見上の救いのなさと主人公の精神のすがすがしさ(ときに図太さに転換する)の対比がおもしろい。

 というわけで「深夜の酒宴」「重き流れの中で」は同じ話のバリエーションを読んでいるみたい。
深夜の酒宴 ・・・ 安下宿にいる男。戦前に共産主義運動にかかわり獄中経験がある。叔父らしい男の好意で下宿に住み、闇市で刷毛を売る仕事をしている。給金は少なく栄養失調で苦しむ。同宿しているものには、飢餓のために栄養失調になった子供に妊婦。彼らは死んだり、死ぬことが予感される。さらに、下宿にはだれかのめかけになっている女がいて、彼女の存在が叔父であり大家である吝嗇な男を悩ませ、その怒りの矛先が男に向かって「出て行け!」。同じく下宿を追い出されることになる妾と深夜に酒を酌み交わすのが「深夜の酒宴」というわけか。主人公は「僕は思想というものはぐにもつかぬものだと云ったじゃありませんか」と叫ぶ。同宿のアパートの住民にからまれてのことだ。彼の嫌悪する「思想」というのは体系的な・教条的な・党派的なものなのだろう。

重き流れの中に ・・・ 崩れ落ちそうなアパートに住む「須巻」が隣家の家族に翻弄される。寺島家は老夫婦と25歳の息子。夫は吝嗇で無学な男、妻は頭の弱いが気のいい女。思ったことをそのまま口に出して失敗する。夫婦は常にいさかいを起こしている。息子は無気力な筆耕者(いまどきのわけーもんはガリ版なんぞしらんだろうなあ)。家を出たいと願っている。町田家は夫不在の女だけの一家。どこかの妾の母は第7子をはらんでいて、家事は小学生の三女がしきっている。収入は長女が妾になっている男からもらうものだけ。この男も奇怪でこんな一家に金と酒を持ってきながら、自身は同じような安アパートの階段下の物置に住んでいる。こういう一家がいさかいを起こしながら崩壊していくのを主人公はみていく。

深尾正治の手記 ・・・ 獄死した共産党員の手記という設定。満州事変当時というから昭和11年ころ。当時椎名は20歳くらいだったので、自分の青春がモデルになっているのだろう。キーワードは「追い詰められる」。大検挙があって共産党幹部がほぼ全員獄中にあったとき、まったんの党員は地下生活にあった。深尾はどこか場末の木賃宿にこもることにする。ここにも奇妙な連中がいっぱい。鰻釣りにいそしむ宿主、蠅たたきを繰り返す家主みたいな男、何事も中途半端で社会に不満だらけの中年男とそいつの家来みたいな頭の温かい大男、肺病病みで死期の近い少女など。かれらのどたばたが深尾の周辺で起こる。深尾自身も、肺病病みでいつ検挙されるかわからず金もない状況。彼がここに来たのは、深尾を共産党に導いて今は離脱した男に何となく会いたいから。その男は検挙事件前に離脱したことをトラウマにし、深尾を訪れてはむちゃくちゃな自己弁護を図る。まあ、いずれもなにかに「おいつめられ」ていて、にっちもさっちもいかない。それが滑稽で深刻な行動や感情を生み、さらに悲惨に落ち込んでいく。この中では逍遥としている宿主も、蠅たたきをする陰鬱な男に殺意を秘めていたなんてことが暴露されたりもする。もっとも滑稽なのは主人公深尾が肺病病みの少女を訪れる場面。彼は医者にかかる費用を工面して渡そうとおもっているのだが、口に出たのは「あなたは棺桶を自分でつくったほうがいい。死体になったらすこしは縮む」。笑いと涙とうそ寒さが一緒にでてくる場面。ついには、宿の住人から人死にが3人から4人でて、宿は深尾一人が取り残される。しかも深尾は共産党から離脱した男に密告されて、拘禁されることがわかっている。でも、かれは畳に寝転がっている。「追い詰められる」の極みにおいて、生とか死とかに無関心になったところにいるのだろう。サルトル「壁」の最後の哄笑と比較するも面白い(かな?)
立花隆「日本共産党の研究 1」(講談社文庫) - odd_hatchの読書ノート
ピエール・ガスカール「街の草」(晶文社) - odd_hatchの読書ノート
ジャン・ポール・サルトル「壁」(人文書院) - odd_hatchの読書ノート


 この作者の小説では、主人公は観察者。彼の周りの奇矯な人物の奇怪な行動や発言のほうに重きがある。そして、大勢の登場人物がそれぞれ物語、というか問題を抱えていて同時進行していくものだから、上のように要約すると面白さが全然つたわらなくなる。といって、だれか一人にフォーカスをあてて感想を書くと、ここに収録された短編ですら全体をとらえることができない。ドストエフスキーを好む人はこの作者の小説を読むといい。入手難だけどね。