odd_hatchの読書ノート

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マックス・ウェーバー「職業としての政治」(岩波文庫)

 政治は暴力を扱う装置である、という視点で政治家のあり方を考察したもの。通常、暴力は権力によって規制され、抑圧され、処罰されるが、権力自身が振るう暴力は正当であるとされる。だから個人の犯罪者が殺害した人数よりも、国家による組織的な殺戮装置のほうがより多くの人を殺害することができ、多くの場合、権力が交代しないと国家的な規模の殺害は表面化しない。
 そのような権力を扱う装置を操縦するものとして、政治家が必要になるのだが、もともと自己分析・自己批判を行う仕組みを持ち合わせていない装置であるから、そこに集まる人にも倫理を期待することができない。自己への倫理と同様の倫理を社会に要求するものは、宗教人になるのであって、そこからは権力装置を操作することへの興味は生まれてこない。
 多くの場合、政治家にはいくつかのタイプがあり、(1)恒産をもっていて、政治家としての報酬を期待することなく生活できる人。このタイプの政治家はもはや(1919年において)いない。(2)官僚あがり。権力装置の一端の仕事をすることにより、装置の使い方に長けている人。勤続していた官庁や特定団体の利害調整者として働く。(3)「ボス」。選挙の票のとりまとめを行える人。(4)地域や共同体から互選などでリーダー的な仕事を任され、そこの利権獲得を目的として働く人。いずれにしても、高邁な目的を持って政治に取り組むようなタイプではない。しかも、政治にかかわる人は、多くの場合ルサンチマンに基づく熱狂によって短期的な効果を目的とするようになり、しかも次第に自分のポジション獲得あるいは利権獲得に向かって動いていき、もともとの政治目的を見失うようになるのである(このあたりは第1次世界大戦後に起こったドイツ革命運動の参加者に向けられている)。
 ウェーバーによれば現状では「政治」が理想的に行われる可能性はほとんどありえないとされる。しかし、「にもかかわらず」根気が必要で、他人の意見をよく聞き、自分の目的を変えることのないような粘り強い政治家であれ、というのである。そうでなければ、視野の欠落した一時的な熱狂者のほとぼりが冷めたあとに、最悪の政治が生まれることになると予言している。