odd_hatchの読書ノート

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川崎修「ハンナ・アレント」(講談社学術文庫)-4 「人間の条件」を読む。労働・仕事・活動、個・公共性・共同性。

2021/12/03 川崎修「ハンナ・アレント」(講談社学術文庫)-1 2014年
2021/12/02 川崎修「ハンナ・アレント」(講談社学術文庫)-2 2014年
2021/11/30 川崎修「ハンナ・アレント」(講談社学術文庫)-3 2014年


 第4章は「人間の条件」を読む。これまでに登場した「全体主義の起源」「革命について」、いくつかの時事問題の論文は政治哲学の語彙で書かれていたが、「人間の条件」は本格的な哲学書の趣き。アーレントハイデガーヤスパースと議論する俊英であったことを思い知らされる。なので、ここはとても難解。研究者によるレジュメである本書を読んでも、うまく把握できない。

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第四章 政治の復権をめざして
1 労働・仕事・活動 ・・・ 人間の活動activityを労働labor(生命それ自体にかかわる)・仕事work(世界性にかかわる)・活動action(複数性にかかわる)の3つから考える。労働と仕事のまとめは俺には無理。活動actionは複数の人間とかかわり、言論(言葉と行為)と活動(人間の網の目で連鎖する)からなる。活動は永続性と耐久性がないので後世に残らないが、連鎖によって他人の活動を呼び起こす。活動者は自らの活動をコントロールすることができず、自由の行使が自由を失っているように見える。(そういう活動をアーレントは政治的生(ドイツ語版のタイトル)と呼ぶ。アメリカの共和制を想起するとわかりやすそう。社会の中にある小集団に参加して、公的自由を楽しみつつ、政治にかかわっていくようなイメージ。路上にでてデモンストレーションするだけでなく、人々との討論・議論しつつ意見をまとめていって、実際に動いたり別の地域や集団に行ってアピールすることもする。そういうのが人間であることの条件になる。)

アレントの政治概念 ・・・ アレントの政治観の特色。1.私的(生命そのもの、仕事)、公的(政治的、自由の領域)、社会的(経済的)の厳格な区別。2.政治への自由、参加の協調。3.暴力あるいは支配、主権と区別された権力の概念。4.代議制の不信と評議会への賞賛。5.自己表現としての、自己目的的・「芸術」的政治像。アーレントは上に出てくる概念(私的・公的・社会的、暴力、権力、私有財産、富、活動、行為など)を通常とは異なる意味で使っているうえ、議論が複雑に絡み合っているので、自分の力では要約できない。生命そのものである仕事の境域である私的領域があり、貧窮から解放されると政治的領域である公的領域が生まれる。そこにおいて人は勇気・決断することで公的領域に参加して、活動と言論を行う。近代になって資本主義が隆盛すると、私的領域である家が拡大して経済活動を行う社会的領域が生まれる。ここは私的でも公的でもなく、家長専制から生まれた官僚制が可能になる領域で、画一主義である。くらいまでがどうにかわかる部分。このあとの権力や私有財産などの議論はギブアップ。賛同したのは、政治への自由は自発性、始めるという純粋な能力であり、活動の属性であるというところ。公的領域に参加するには勇気や決断があるというところと照応する。個々人の自発性が発揮されるには、公的自由を楽しむ人々が活動できる空間があるべきであり、権力はこのような公的領域を存続させるものなのである。
(活動がその場限りで消えるものであり、実際に権力が公的領域を存続させる事例はきわめて少ない。アーレントがみるのはアメリカ革命であるが、その存続には失敗したとみている。俺の感想では、アジアの権力は公的領域を存続させるどころか破壊しつくすものであったし、今でもそう。そういう点ではアジアにはアーレントのいう公的はなくて、社会的な権力だけしかなかったのだろう。)

3 個・公共性・共同性 ・・・ アーレントの考える政治は労働の論理が侵入すること(手段-目的の関係でとらえること)、仕事の論理で支配されること(生命の必要に専念すること)はダメとされる。ダメな政治観の典型はプラトンマルクス主義。ルソーのような意志の一体性を求めず、活動action(説明が難しいけどとりあえず政治的な自由の行使あたりです)には制約がある。暴力や他人の支配はNG。公的な関心に基づいていなければならず私的な利益に基づく行為もNG。そういう制約はあるけど、活動は予測を超えた、日常的な道徳規範を超えうる、非定型的な行為であって、新しいことを始めることで、勇気や決断によって参加すること。以上、とりあえず理解できるところを抜粋。
(こういうアーレントの政治のとらえ方は現実の政治の在り方、とくに統治を説明できないのではないかという批判があるとのこと。たしかにアーレントは運動や公的自由を中心におくが、そこからは異論や他の政治体との衝突、公権力の暴力への対抗などという議論は出てこないように思う。)

エピローグ
全体主義の世紀/2保守性と革命性/3政治の限界
 引用された藤田省三の言葉。「全体主義は難民displaced personsの生産と拡大再生産を根本方針とする体制」「市民権のあるものを追放する」「追放者を決定するのがイデオロギー」「安定的な秩序の絶えまない破壊」(「全体主義の時代体験」から)。ナチススターリニズムの敗北で全体主義は消えたように見えるが、いつでも再生できる(実際に多くの軍事独裁国家がそうなった。アジアの多くの政権も全体主義志向)。アーレントは公的自由の行使、活動の復権、評議会制などを提案するが、これは全体主義に抗する解答や処方箋ではない。国民国家ナショナリズムには限界があり、大衆社会化は進行している。政治的に考えることは宿命論や因果的決定論を排すること。
アーレント全体主義に対抗する社会としてアメリカの共和国に希望をみようとしたが、同じように全体主義の恐怖を分析したアドルノ-ホルクハイマーの「啓蒙の弁証法」はアメリカの大衆社会全体主義に自ら進んで行くと主張する。うーむ、とぼんくらな俺は考え込むのであって、およそ四半世紀前に読んだまま放置した「啓蒙の弁証法」を読まねばなるまい。)

 

 

 アーレント全体主義分析はとても有用。おそらくフランス革命以降のヨーロッパの歴史を鳥瞰するに破砕的なガイドになるのではないか。市民、政治、経済、社会のからみあいをこれほど端的に説明するのを他で読んだことはない。重要なのは、その分析が21世紀のレイシズムや極右の運動にもあてはまること。第1、第2章を読んでいるとき、書かれているのは21世紀のことかと思ったくらい。それに対抗するプロテスターの活動は、アーレントのいう活動actionと重なるところが多い。反差別の抗議に行くかどうか迷い、行ってしまった後でこんな簡単なことだったのかとすがすがしくなる気分はアーレントが私的領域から公的領域に行くときには勇気や決断があるという指摘に照応する。そういう公的自由、活動の復権も311以後の市民運動の説明に対応する。
 そういう具合にアーレントの分析は有用である一方で、人種やエスニシティをめぐる問題に政治の役割は抑制的であると説く。ここは違和感。
 「人間の条件」は読みたいと思ったが、プロによるレジュメを読んでも理解が難しい。もう少し参考書をあさってから、取り掛かるか。「存在と時間」は大量の解説書があるが、アーレントの解説はとても少ない。これは残念。