odd_hatchの読書ノート

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ミヒャエル・エンデ「オリーブの森で語りあう」(岩波書店)

 1982年春、南イタリアにあるエンデの別荘に3人が集まる。小説家エンデ、政治家エプラー、演劇人テヒル。彼ら3人は2日に渡って語りあう。主題はファンタジー、文化、政治(隠れテーマで経済)。自分の感想を交えながらまとめてみよう。参加者はそれぞれ発言しているが、やはり文学者エンデの発現がもっとも啓発的なので彼の主張にフォーカスをあわせることになる。

金曜日の午前に ・・・ 20世紀のユートピアはどれもネガティブ(「タイムマシン」「すばらしき新世界」「1984年」)。ここではポジティブなユートピアを構想してみよう。そうすることによって、目前の問題・解決すべき問題・折衝すべき課題など途方にくれる課題をかっこに入れることができるから。あとこの現実は一握りの搾取者、為政者が作ったものではない。ある階層や特権者を排除することで世界が変わるわけではない。人びとの合意に基づいて作られているので、人々の意識変化が必要。
 で、エンデのポジティブなユートピアの概要。国民国家フランス革命以来、自由・平等・友愛をスローガンにしてきたが、(国民)国家=ステートが実現できるのは平等だけ(それも「法の下の平等」「立法における平等」)。自由は内面に深く関わっているので、「精神」が担当すべき。重要なのは教育だが、これは国家が行うものではなく人びとがイニシアティブをもって行うこと(直接教育機関に金を払い、運営に関われということ。そのとき国家は手出ししない)。友愛の実現は経済が行うべき。しかし、現在の資本主義(自分の考えではそちらが問題ではなく自由(競争)主義的経済体制のほうが重要なのではと。あれ、違いはなんだ)では実現不可能なので、資本主義ではない経済に変わるべき。そのとき生活共同体とか生産組合のような小型で自主的な組織、グループが重要になるだろう(ついでにいうとこれらの組織の目的は利益を上げることではなく、利害関係者にむけた貢献やパフォーマンスを実施し、「社会」の評価を高めることになるだろう)。国民国家は本来受け持つべきではないことに手を伸ばしてきて、かつ失敗してきた(にもかかわらず市民は国家にさまざまな要求をする。エンデは家父長的温情主義という。この国でいえば「水戸黄門」を期待しているというわけだ)。なので、ポジティブなユートピアでは自由・平等・友愛をそれぞれ担当する組織が「文化」に共同して参加するような仕組みになるだろう。この「文化」はネーションではないと思うし、既存のEUでもないだろう。
金曜日の午後に ・・・ 現代社会を律する問題としてマテリアリズム(物質主義)が取り上げられる。ここでのマテリアリズムは近代科学の合理主義や極端な唯物論。もうひとつは利益の最大化を目的にする資本主義。この対談ではごっちゃになっているように思う(もちろん互いに影響しあっていることは認める)。で、それぞれのマテリアリズムは限界があるが、そのことは隠されている。なので、この限界を意識し、内面と社会を変化すべきという議論が続く。主要な社会的関心事項は原発問題(1982年の西ドイツの選挙はこれがテーマだったらしい)。もうひとつは極端な個人主義(それによる孤独と共同体の解体)。面白いのは家族や共同体の解体に対応する試みとして、共同生活(住共同体と名付けられている)とご近所共同体の実験が紹介されている。
土曜日の午前は ・・・ 政治家エプラーのいない席で演劇が語られる。演劇人テヒルは政治的な主張の討論ないし公開の場として演劇(コンタクトシアターと呼ぶ)を使うべきと主張する。政治的な主張を持つものが主張することと反論に対する反論をする場、市民の理解を深める場となることを望む。エンデは演劇には現実は入るべきではない、演劇というフィクションは美に直接触れる体験を提供することによって、観客の想像力を挑発したりうちから生み出すようにするべきである。あいにく実践の場の違う二人の主張は平行線をたどり、落ち着きところは見出せないのだが、ドイツの人が主張の根拠付けというか立ち入りの理論化というかそういう理屈をこねくりまわしたり、そう簡単には主張をまげないところにびっくり。この国の議論の進め方と全然違う。エプラーが来てからは「権力」の話。見えない権力の桎梏には個人では逆らえないし、パワーの出てくる仕組みを変えるのも難しい、とかそんな話。
土曜日の午後に ・・・ まずはポジティブなユートピアにおける男女の役割について。1980年代においては、それぞれのジェンダーは明確で、かつ仕事も社会的な役割が区別されていたのだった。それを取っ払うようにしようということ。ごく小さな一歩だけど。後半は「意識の変化」「限界の先を行くこと」について。これも1980年代の背景を知らないと意味のよくわからない議論になるのだろうな。

 最後の会話を補足すると、1960年代は現代社会とか資本主義とか人間の疎外とか社会的不平等を告発し批判する時期だった。そしてなるほど問題があることとどういう問題なのかは明確になってきたようだ、でも権力者や搾取者はその問題を解決することはないし、告発者や批判者を抑圧しようとする。では、われわれはどのような別の解決策(オルタナティブ)を提案できるか、ということになってそこで打ち出されたのが「意識の変化」。我々(市民とか人民とか国民とか)が権力と抑圧の体制(システム)を認識し、それに加担しないことを意識しよう、そして現代の社会の仕組みから離れる生き方をすることによって世界は変化するのだ、という考え。でもって、意識の変化を促進する手段として禅とかインド仏教とか瞑想とかカスタネダの本とか、ときにはドラッグが使われた。共通するのは、宇宙的な意思とか生命体としての地球なんかに直接魂で感応しあうことである(チャネリングとかガイア仮説とか波動=バイブレーションとか)という思想(のごときもの)。こんなところが1980年代のカウンターカルチャーの状況。この対談集の背景はこんな感じ。
 実のところ、その種の運動は1980-90年代に挫折する。ひとつはヒッピーコミューンとか生活共同体などがうまくいかない(経済的にも同士の連帯においても)、次には世界的な好景気で企業に就職したほうが高給を獲得できたこと(そんな時代に清貧な生活はみむきもされない)、各国政府が反政府活動の主張を実現する社会民主主義政策を執ったのでおいてけぼりにされたこと、さらにはこういうニューエイジ思想を持ったカルトがさまざまな問題を起こしたこと(人民寺院とかオウムとか統一教会とか)。
 自分なりにその後をまとめると、たしかに「意識の変化」は重要。でもそんな思想論争をするより、修練を含む内面の変化を個々が行うより、具体的な行動プログラム(車に乗らない、隣近所と仲良くする、地域貨幣に参加するなど)を提起するほうが時間はかかるけど効果が現れるのではないか。こんな風に問題解決策がシフトしてきた。なので社会を変革する方法として「意識の変化」云々はまどろっこしいし、的を離れた議論に思えるだろう。(下世話に言うと、大人になってからそれまでに体験・体感して構築した生活の様式を変えろ、というのが「意識の変化」を主張する側。そんなこと権力が強制しない限りできないじゃないか。)
 なるほどエンデはこの社会を変革する方法は明示しなかった。まあ、ゲゼルの経済学を紹介したり貨幣を根源的に問いかけたりするというのは未来像の一つといえる。でも重要なのは社会に関与することで、ニヒリズムに陥ったり投げやりになることではない。あと、未来を先取りしてイメージを共有し、共通なツール(タームとか概念とか)を皆が使えるようにすることも重要。1980年から世界は変わっているのだし、一作家に変革プログラムを求める必要はない。彼もいうように失敗すること、失敗を繰り返して変化をみいだしていけばよい(そういう意味では過去の失敗のおかげで、どこに限界があるのか、どの失敗まで許容できるかは1980年よりはっきりしてきているからアクションプランは立てやすいのではないか)。あとは読者個々人の問題だな。
 自分にとって刺激的だったのは、国家=ステートをマルクスレーニンのように打倒ないし簒奪の対象にしたり、ファシスト愛国者のように目的にするのではなく、ヒトの作った不合理な組織のひとつで、今はあまりに多様な要求を抱えてアップアップしているのだという見方。なるほど、国家=ステートを本来の「立法」に限定して、それ以外の機能を他の組織と分担させることによって、まったく新しい世界の可能性が見えてくるのだな、と。くどいけどその先にあるのはEUでも、アメリカ<帝国>でも、国際連合でもない、まだ誰も構想したことのない組織なのだ。カントにならって「世界共和国」とでも呼ぶべきかな?
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