フィリップ・K・ディック(PKD)が、神秘体験を行い、そのことを考察するノートを書き続けた。初期キリスト教、グノーシス主義、その他をないまぜにした独自の神学を構築し、「VALIS」三部作などにまとめられたことは知っている。1980年代初頭に刊行された「ヴァリス」の解説に記載があった。ノートは長い間、邦訳されていなかったが、2000年代に入って翻訳が登場した。これを読む人は国内に一体何人いるのだろうか。もしかしたら3000人の読者しかいないのではないか、ひたちなか市郊外の書店で購入したときに、そう思ったものだ。
実際のところ、これを読むことはかなり困難だ。本人自身が思考の運動をとりあえず書きとどめたものであるので、とりとめがなく、反復が多く、個人的な事柄が記載されているからだ。この背景には、ディックがドラッグに手を染め、同じくジャンキーと一緒の共同生活をおくっていることがある。それが可能になったのは、失業者への食糧支援制度などの社会福祉政策があり、この種のジャンキーがフリーライダーになったということを理解しておきたい。ドラッグ、自分が自分でないようなアイデンティティの危機、社会の画一化に対する無力感、誰かが監視密告しているのではないかという妄想。これらのオブセッションと神学知識がアマルガムになった。
PKDのオブセッションは今日ではごく普通の人のもっているものといえる。この世界は真実の世界ではない、この世界を統括しているなにかの存在がわれわれを苦しめるために偽の世界を作って、われわれを閉じ込めているのではないか。真の世界にいたるには、われわれは彼らの欺瞞を見つけ、次の世界にいたる鍵を入手し、偽の世界を作る悪しき精神あるいはシステムを破壊し、われわれ牢獄にいるものを解放しなければならない。そのために、まず古代の叡智を探り出すことから始める。そこにはわれわれと同じように世界の欺瞞に気付いた同士がいるからだ。
(こういうイメージはたとえばコリン・ウィルソンあたりに似ているのだが、決定的に異なるのは、ディックの場合、こういう認識や運動が常に敗北することかな。ある真理を獲得したと思っても、そのとたんに真理がウソや虚構であることが知れて、再び混乱の中に戻るというような。ウィルソンは「オレは正しい」と主張できるが、ディックは「オレはたぶん正しい道を歩いているはず、でも誰かにたぶらかされているかも」と疑ってばかり。)
こういう考えやオブセッションは、最近のサブカルチャーの作品で容易に見て取れる。「新世紀エヴァンゲリオン」も、映画「マトリックス」もこういう世界認識からできている。もちろんこれは時系列を逆転していて、PKDの作品(とくに「ユービック」や「死の迷路」あたり)から始まり、スコット監督「ブレードランナー」で爆発したサイバーパンクの流れが次にくる。その総集編が上記の2作品といえるだろうな。
というようなおしゃべりのために、この本は有効かというとそうではなく、好事家のためのもの。1960-70年代のドラッグカルチャー、ヒッピー文化とPKDの作品と生涯を知っていないとこの本を楽しむのは難しい。
もしもPKDが「ユダの福音書」を読んだらどうなっていただろう。釈義に記載が加わったかなあ。