「女優クリスの娘リーガンを突如襲う異変。教会で発見された黒ミサの痕跡。映画監督の惨殺。一連の異常事は次第に《悪魔憑き》の様相を見せはじめた。神父カラスに助けを求めるクリス。が、ここから善と悪との闘争が始まろうとは知るよしもなかった! 壮絶な恐怖とともに愛と希望を描く感動の傑作。ディーン・クーンツが絶賛。」
エクソシスト - ウィリアム・ピーター・ブラッティ/宇野利泰 訳|東京創元社
自分は初出(1971年)の2年後に公開されたウィリアム・フリードキン監督の映画に直撃された世代だから、内容はよく知っている。でも原作は新潮社のハードカバーででたあとしばらく品切れで、創元推理文庫が1999年に復刊するまで読めなかった。自分は古本屋でハードカバーを入手したのでそちらを読む。
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悪魔というのは自分にとっては誘惑するもの、人間の決意や思想を試すものであると思うのだが(福音書にでてくる悪霊とか、「ファウスト」に登場するメフィストフェレスとか、「カラマーゾフの兄弟」でイワンを試す悪魔とか)、ここでは理由なく人に取りつき、反キリストの言辞を吐き、アンモラルな行為をさせる力として現れる。キリスト教の悪魔というより、ルカ伝にでてくる悪鬼(レギオン)に近いような。言葉と概念の混乱があるのかな。まあ、ここまでにしておこう。
物語は3つに分けられる。
ひとつは、有名女優クリスの一家に起こる「悪魔憑き」。12歳のリーガンは一人遊びが好きな孤独な娘。誕生日を迎えるあたりから奇妙な出来事が起こる。キャプテン・ハウディなる架空の人物と白昼夢の会話をしたり、頻繁にものが移動したり、原因不明の音が部屋で起こるなど。そのうちに会話ができなくなり(教えていない言語をしゃべる、非常に知的な語彙を使う、涜神的な言葉・卑猥な言葉を使う)、不潔を好んだりする。クリスは内科、脳外科、精神科などで受診させるが、どの科でも原因を特定できない。とりあえず鎮静剤と睡眠導入剤を投与するだけ。そのうちに暴力をふるい、反吐や便をまくようになったので、寝室に監禁せざるをえなくなる。そしてある精神医の勧めによって、イエズス会に「悪魔落とし」の儀式を依頼することになった。クリスは映画スターであるが、前夫=リーガンの父であるハワードとうまくいかなくなり離婚。秘書と住み込みの世話人夫婦と5人で暮らしている。進行中の映画はくだらないスクリプトで、アル中の監督は暴言を吐くことでストレスを発散、彼はクリスの家に闖入しては混乱を起こしている。家族の不和、父権の不在、表層的な人間関係、暴力の発生(ついでに投資の失敗で家計に問題あり)、こんなことがクリスの家に起きている。この家は1971年のアメリカを象徴しているのだろうな。アメリカの問題がそっくりこの小さな家に起きていて、科学とか権力とかは問題解決能力がないのだ。
2番目は、カラス神父。このイタリア系の名前を持つ中年・独身男性は、自分の意志で神学と精神病理学を(独学で悪魔学も)学んだもののの自分の信仰に確信を持てない。英語を話せず独居を余儀なくされた母を孤独死させたからだった。この親子関係はもともとうまくいっていなかったのだが、自分が出かけている間に母が死んだことに強い自責を感じている。それがさらに彼を内気にさせ、自信を喪失させている。クリスの依頼で「悪魔落とし」の儀式を行うとき、そこに感じたのは自責を解決するための手段になるとみたからかしら。彼の孤独感、および母性や父権へのあこがれもまたアメリカのこの時代の特徴になるのかなあ。
3番目は、キンダーマン警部。アル中の映画監督はクリスの家の前で首をねじ曲げられた死体で発見された。自殺にしては強力な力が加わっているので、殺人事件として捜査が開始される。そのためにクリス、カラスなど関係者の家を訪れては含みのある会話をかわしていく。彼は都市や国家の「悪」や不条理を見ていく観察者。クリスやカラスのような問題から一歩引いているために、客観的な見方をすることができ、そのとき彼の目に映るワシントン市とポトマック河のなんと寂しいこと。アメリカの人々の心象風景のようだ。
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よく言われるように、モダンホラーは社会的弱者が危機にあることによって家族その他の共同体の復活を願う物語、現代社会の病理を象徴的に記述、というところに着目していくつか箇条書きに。
・映画では存在感を示した古生物学と神学の権威であるメロン神父。テイヤール・ド・シャルダンをモデルにしたといわれるこの神父は「神は理性ではとらえられない」といっているところが印象的。(映画だと、リーガンの寝室をカラス神父がちょっと退室したすきにメロン神父はなくなるのだが、本書だとカラス神父は神学校の寮に戻ってシャワーを浴びたり仮眠をしたり、キンダーマン警部につかまって長い会話をするなどほぼ一日不在だった。映画との大きな違い。)
・クリスの雇ったスイス人夫婦は妙に口数が少ない。この夫婦もまた子供を若くして亡くしていること、妻には内緒にしているが子供は生きていて、ハイティーンの娘になった子供は麻薬中毒になっている。もしかしたらナチ関係者かもしれないと自分は妄想した、そんな記述はまったくないけど。ここでも家族の問題が噴出。
・リーガンが悪魔の言葉を語るところを除くと、徹底してリアリズムの描写。関係者は理性と過去の知識でもって、現象を説明しようと苦闘する。そこには目前におこる出来事に対し、超越的な存在を簡単には認めない。さまざまな怪現象にもたんたんと対処している(秘書や世話人などの同居人)そのあたりは現代人。とはいえ、それでも科学や過去の知識では説明できなくなり、そのとき、多くの人は事態から逃げ出すというのも現代的かな。
・明晰で冷静な記述の仕方とか、おこる現象のちゃちさ(人体やベッドの空中浮遊に、異常に低い室内温度、反吐や下痢便の排泄、猥褻で涜神的な暴言など)で恐怖を感じることはなかった。これは彼らの宗教に通じていないせいだろう。ひとつだけ怖いところがあるとすると、「悪鬼」がリーガンに取りついた理由が不明であること(プロローグでイランの発掘調査(当時イランは親米政権だったのだ)でメロン神父が悪魔バズズの像を発見したことが遠因のように描かれる。でもなぜリーガンを選んだ?)。本書では弱者にとりつくことによって、関係者に悪をなすことが悪魔のやり口だということになっている。この場合の悪は無駄金を使わせるとか資産価値を減らすとかそういうことではなく、関係者のトラウマを暴き、関係者間に不和をまきちらし、グループとか組織が解体するように仕向けること、および信仰を奪うことだ。でも、逆境にあうことによって、関係者は新たな人間関係と神への信仰心を回復するのであって、悪魔の仕業の理由はよくわからない。クリスの言うように「悪霊は神のコマーシャル」なのだろうねえ。その種の「神」が不在の自分にとっては、この悪魔憑きをどうみればいいのかなあ。単に暴力やスカトロの嫌悪感だけになるのかしら。
・書かれた当時を思い返せば、1968年の大学紛争は峠を越えて、関係者は皆疲れていた。精神の解放もドラッグのオーバードーズやより過激な薬への傾倒で死者を出す大きな被害になっていた。そこで浮かび上がってきたのが、東洋思想や瞑想、ヨガなど(クリスの秘書シャーロン20代は仏教徒になったという設定)。それに呼応して新興宗教が生まれていたし、ベトナム帰還兵の病んだ精神もまた問題になっていた。この時代のカウンターカルチャーが既存の共同体を破壊した後、心のよりどころもがなくなって精神が荒廃していたということになるのかな。そういう問題の象徴的な事件がマンソンファミリーによるシャロン・テート殺害事件なのだろう。