odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

アーサー・クラーク「2001年宇宙の旅」(ハヤカワ文庫)-1

 自分が購入したのはあとがき(文庫旧版)にある1978年の映画再公開にあわせて出版されたとき。「スターウォーズ」にあわせてのリバイバルと思うが、この映画を見るために苦労したなあ。新宿の武蔵野館まででかけたが満員で入館できず、午後の模擬試験のためにあきらめたのだった。結局、半年後に大学のある町の映画館でみることができた。

 サマリは語らない。DVDをもっているのだし、いろいろなところで語られているから。ちなみに、小説でのHAL9000の誕生日は1997年1月12日。映画版は1992年1月12日。映画版の誕生日にこの国のSF関係者はHAL9000の誕生パーティが開いたらしい。
(映画版と異なるところは、目的地が土星であること。知的生命体が人類の創世時に介入したり、月にモノリスを埋めたりした時期と、土星の月のひとつを破壊してしまった時期が一致するという設定があり、またヤペタスが中継基地であるのは、ラグビーボール風の変形した小惑星で、地球からの観測では明るさが極端に異なることで一連のつながりを推測できたという設定もあって、自分はこちらのほうを好ましいと思う。あと小説版ではモノリスは透明。)
 クラークには、最後の人(知的生命体)というモチーフがよく現れる。といってもそれほど読んでいるわけではない。「幼年期の終り」では群体化しなかった最後の「ヒト」は地球の最後を見届け、報告するために残る。「都市と星」では、精神生命体が「狂った精神」と宇宙の終りに対決することが予想される。ここでも、ディスカバリー号にただひとり残ったボウマンはモノリスに向かって帰還しない旅に出かける。いずれも、ペシミスティックな状況で、ヒロイックな行動を選択することになる。このあたりはクラークの特長なのだろう。
 物語の最後、スターゲイト(こういう単純なことばを重ねて、とてもファンタジックなイメージを喚起する言葉をつくることに、高校生のときに感嘆したもの。スターチャイルドもそう。のちにマキャモン「スワンソング」で「ドリームウォーク」その他のイメージ喚起力の強い言葉にであったのをおもいだす)を越えた後、ワシントンにあるホテルを模したロココ調の部屋でボウマンは最後の眠りにつく。ここから先は映画では描かれなかったのだが、ボウマンは時間を逆行するように、自分の過去をみる。ボウマンはまあおおむね自分の過去を肯定的にみることができる。宇宙飛行士として激しい訓練を経て、使命感を持っている男にとっては人生の振り返りというのはそういうものだろう。同じような場面がPKD「暗闇のスキャナー」にあった。こちらはドラッグを飲んでいる状態の夢のシーン。男のかたわらに悪魔(?)がたって、男を断罪する。それは生まれたときからの順番で行われ、一千年たっても5歳のころでオナニーを覚えたところ。すべての論告が終わるまで一万年もかかるだろうと男は夢想する。人生の振り返りが科学者クラークとジャンキーPKDで極端に異なるのがおもしろい。
 あとは、この小説に特徴的なこととして、通常の小説よりも人物との距離が遠いところに語り手の視点を置いているということ。わずかばかりの感情が書かれていても、とてもドライで突き放した書き方になっている。映画もそうで、ボウマン、プール、フロイド博士のような個人名をもつ登場人物もそれがどのような内面を持っていて、この問題(人類初の知的生命体との遭遇)をどのように考えているか、まったくわからない。そういえば、三百年前に地球を知的生命体が訪れ知性の種子をまいたとか、スターゲイトの向こうが廃棄されたグランドセントラルターミナルだったとか、そういう大状況は本文の中だけで書かれていて、そのとき語り手は「知的生命体」をメタ視点で見ることのできる、それこそ「神」の視点にいるのだった。神が存在するのは言葉の語りにおいてなのかもしれないなあ。
(人類は知的生命体との遭遇を数万年の差で逃したとか、知的生命体は肉体を捨てて別の次元にいってしまったらしいとか、表層の明るさのうしろには、とてもペシミスティックな想定がおかれている。大江健三郎「治療塔」の悲観主義はここらへんからもたらされているのかしら。)
(続く)

 1978年にFM東京サントリー音の本棚という番組があった。そこで「2001年宇宙の旅」がラジオドラマになった。
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