odd_hatchの読書ノート

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E.T.A.ホフマン「ホフマン物語」(新潮文庫)

 この文庫が出版されたのは昭和27年で、オッフェンバックホフマン物語」をまともに聞くことはできなかった。まだLPレコードもでていないし。まして、「顧問官クレスペル」に名前の出る古典派の作曲家は録音すらなかったのではないかな(タルティーニ「悪魔のトリル」を除く)。それがいまでは・・・。さすがにこの文庫で「ホフマン物語」の原作を読むというのは無理だが、代わりに岩波文庫で新訳の「ホフマン短編集」が出ている。

砂鬼 ・・・ 物語の前史としてナターナエルの少年時代がある。夜、寝付かないナターナエルに両親は「砂男がくる」という。そいつは目玉を奪う悪鬼。さて、父は奇妙なドイツ人コッペリウスと親交が会ったが、こどもにはいやなやつでいつも意地悪する。ナターナエルはコッペリウスを砂男と信じていた。さて長じて大学生になったナターナエルは大学教授スパンツァーニの門下にはいる。あるとき、その娘オリンピアを窓越しに見つけたときから一目ぼれ。いいなずけのクララのことも忘れてしまう。教授の主催した舞踏会でナターナエルは初めてオリンピアとダンスをし、口づけをする。いっさい拒まず、おしゃべりもしないオリンピアにもう夢中。さて、スパンツァーニは薄気味悪いコッペリウスと知り合いであり、あるとき喧嘩して、コッペリウスはオリンピアを持ち去ってしまう。もう200年前の話だからいいよな。オリンピアは教授の作った機械人形であった。
 通常は機械・人形に恋した男の悲劇とされる。こちらからの一方的な愛の押し付け、自分の愛を愛する仕方を批判しているというわけだ。とくにこれに反論するつもりはない。いくつか妄想をすると、重要な小道具が望遠鏡。ナターナエルがオリンピアの美を発見するのは望遠鏡を通して。18世紀が天文学の時代で、各所に天文台が作られたことを思い出そう。望遠鏡は人の視覚の限界を超えた微小な光と姿を捉えるもの。そこから望遠鏡が新しい美を発見するシンボルとみなしてもいい。あと、18世紀は理性の時代で、デ・ラ・メトリの「人間機械論」が1747年にでた。オリンピアはたぶんこの種の機械論のアレゴリーとみなせる。それに恋した男の破局ということで、前世紀の啓蒙主義や理性主義を批判しているのではないか、と。それらの18世紀思想の反動としてロマン主義があらわれ、その初期の旗手はホフマンその人だったし。
 フロイトがこの話を分析しているのか、知らなかった。オッフェンバックのオペラの原作であることは知っていたが、ドリーブのバレエ「コッペリア」の原作であるとは知らなかった。
映像を売った男 ・・・ 18**年の大晦日、「私」はユーリアの美貌に惹かれるが、「宅が私を追いかける」で一気に失望。駆け込んだ酒屋で宅であるエラスムスと出会う。彼のいうことには、ユーリアはジュリエットの名前を持っていて、かつて彼女に求婚したとき、私に愛を誓うなら永遠の愛を与える、その代わりにお前の影(映像)をよこしなさいといわれた。さて、その後の悲劇。影(映像)をよこすというのは影がとくに鏡に映らないということで、まあ悪魔とか吸血鬼とかの弱点であった。のちにニーチェが「人間的な、あまりに人間的な」の「漂泊者とその影」なる章で漂泊者を揶揄する影を創造していたが、西洋思想における「影」の役割って何? プラトンの「国家」まで遡るのかな。あと、ベルダーなるピアニストが超絶技巧をひけらかすが、まだリストもショパンシューマンもいない時代。ベートーヴェンの中期のピアノソナタ(「熱情」「ワルトシュタイン」あたりか)やウェーバー(おお、ホフマンのライバル)の小品あたりが超絶技巧曲と呼ばれていました。
顧問官クレスペル ・・・ 奇妙な法学者クレスペルの一代記。クレスペルは宮廷や皇帝の信頼厚い法学者であるが、奇妙な振る舞いをすることでも有名であった。とりわけバイオリンの組み立てと演奏に秀でている。彼は独身であるはずだが、ある年、若い娘アントニアが現れ、彼の家からは外に出ることが許されない。さて、バイオリンのことでクレスペルと近づきになった「私」はアントニアに出会い、人目でほれた。「私」がピアノに向かうと、アントニアはその横にたって歌を歌うそぶりをみせる。クレスペルは激高し、「私」を家から邪険に追い出した。それから数年後、クレスペルの家をおとづれると、葬式の最中であった。「私」を見つけたクレスペルは謎を明かす。ミューズの神に愛されたが、その愛され方がいびつなためにこの世界では居所を見つけられなかった芸術家(になり損ねた)の話かな。ホフマンはウェーバーの向こうを張る作曲家でもあって、音楽の話になると筆が立っている。クレスペルのバイオリン演奏に人は夢中になるのだが、同時代にパガニーニがいたしね。小説中でもタルティーニ、シュターミッツ、レオなどの一世代前の作曲家が登場(でもモーツァルトとバッハはいない、このころ忘れられていたのだろう)。

 「近代小説」の出発をフローベルとすると、これはその前の時代の小説になる。なるほど心理が細かく書かれているのは「私」という視点の持ち主であり記述者だけ。他の人物が口にした言葉は書きとめられるが、どのような感情、意見をもっているかは書かれない。このような書き方はまだ「古い」といえるかな。その代わりにあるのが「謎」と「解決」。なぜオリンピアはしゃべらないのか、なぜジュリエットは映像を欲しがるのか、なぜクレスペルはアントニアを外出させないのか、等々。それ以外にもいろいろな「謎」が仕込まれていて、最後に理由が明かされる。おもに人の意思や行為が謎を起こしているということが重要。このひとつ前の世紀の「オトラントの城」では「神の意志」とか「悪魔の仕業」だったからね。重要なのは啓蒙主義とか近代科学の方法が小説にも反映されるくらいに、人々の「常識」になっていったこと。その先にある「探偵小説」まではあと一歩までに迫っている。

    

 ホフマン物語は、CDだとクリュイタンス盤しかしらない。
『ホフマン物語』全曲 クリュイタンス&パリ音楽院管、ゲッダ、シュヴァルツコップ、他(1964−65 ステレオ)(2CD) : オッフェンバック(1819-1880) | HMV&BOOKS online - 4563942
 DVDだと、ピィ演出、ダヴァン&スイス・ロマンド管を見た。オランピアは遠目には全裸(着ぐるみ)だし、舞台には全裸の俳優がうようよ。強烈な演出、演奏は凡庸。
『ホフマン物語』全曲 ピィ演出、ダヴァン&スイス・ロマンド管、ラオ、プティボン、他(2008 ステレオ)(2DVD) : オッフェンバック(1819-1880) | HMV&BOOKS online - BAC049