odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

E.T.A.ホフマン「黄金の壺」(岩波文庫)

 1814年の作。
 どじな大学生アンゼルムスは復活祭の日にもうっかり市場の果物売りにぶつかって、売り物を台無しにしてしまう。醜い婆さんが罵倒とともに、クリスタルの壷に閉じ込めると呪いをつぶやく。さて、パイルマン教授の計らいで記録管理官リントホルストのもとでアルバイトをすることになる。奇妙なのは、特別な部屋を使えということと決して原書に汚れを残してはならないということ。アンゼルムスは筆耕に自信はあったものの、サンプルを見て仰天。かつてそのような文字を見たことが無く、自分に筆写できるか不安に思ったから。しかし、リントホルストは君なら大丈夫と励ましの言葉を残す。
 婆さんの呪いを聞いてから、アンゼルムスは奇妙な幻覚にとらわれてばかり。ときには酷い目にあうこともあるが、次第に夢の蛇ゼルペンティーナに惹かれていく。彼女は美しく、彼を愛しているというから。彼はアルバイトに熱中し、南国ジャングルのような植物が繁茂し、原色の鳥が飛び交い、サルがいたずらする桃源郷に心を遊ばせる。ここら辺の南国幻想は、やはり当時流行の博物学と大冒険の反映なのだろうな。
 一方、パイルマン教授の娘ヴェロニカはアンゼルムスに恋心を抱いていたのだが、リントホルストとアンゼルムスの交友によって会う機会を失い、すっかりしょげている。そこで占い師の老婆(冒頭でアンゼルムスに呪いかけた張本人)をたずねたところ、自分の計画に参画すれば、恋を成就させてやろうというのだった。そこで、パイルマン教授をアンゼルムスが珍しく訪れたとき、魔術の力を借りて、アンゼルムスの恋を自分に向けさせる。二つ心をもって放心状態でリントホルストの筆耕をするとき、うっかりとインクを原書にたらしてしまった。たちまち起こる怪奇現象、そしてアンゼルムスはクリスタルの壷に閉じ込められ、婆さんの呪いはここに実現する。
 筆耕の手際のよさに感服したのか、リンクホルストは自分と夢の蛇の娘ゼルペンティーナに秘密を告白する。ぜひ読んでほしいので簡単に触れておくと、過去に火の神サラマンダーは霊界の王フォスフォルスの前で百合の花に恋し、霊界を焼き尽くすという失態を演じてしまったのだ。以来、彼は百合の花と結ばれてできた娘ゼルペンティーナとともに呪われていて、彼らの呪いを解くためには聖なる愚か者による救済を必要とするのだ。すなわち、現世において白昼夢を見る夢想家であり同時に詩人の心を持つ汚れなき青年が必要なのだ(おお、ワーグナーの「パルジファル」)。そこで見込まれたのがアンゼルムスであり、彼の夢いる力と詩人の空想は再びゼルペンティーナを思い出し、ゼルペンティーナの秘匿する黄金の壷を狙いにきた占い師の老婆を返り討ちにする。ここの攻防戦は読み応えのある面白さ。互いに超能力や魔術を駆使して極彩色のスペクタクルを演じるのである。ようやく結ばれたアンゼルムスとゼルペンティーナは夢の王国アトランティスへと出立する。
 これだとヴェロニカがかわいそうとおもったのか、作者はもう一人の若い青年ヘルブラントを召還し、彼が宮中顧問官(いまならさしずめ財務省のエリートあたりか)試験に合格したことを報告させる。すると、ヴェロニカはアンゼルムスは忘れがたいが、「名誉とお金があるなら、たとえ男はまずくとも、あたしはあなたが好きよ(@エノケンこと榎本健一「洒落男」訳詞.坂井透)」というわけで、彼らは結婚してめでたしめでたし。まあ、夢見る力がなく、現世の宝をほしがる人には経済力と名誉がふさわしい、ということか。
www.youtube.com

 他の作品(砂男や牡猫ムルなど)に比べると、はるかに緊密なストーリーを持ち、それぞれの人物はいきいきとしている。現世の出世争いと結婚相手探し、精霊と人間の恋愛、精霊と悪霊の格闘戦、という3つのレベルの異なる物語が渾然いったいとなっているさまは素晴らしい。以前読んだ2作はある種義務感で読んだのだが、こちらは優れたファンタジーとして読むことができ、同時に、その時代に進行していた産業革命と資本主義化、官僚制の強化が社会の夢見る力を駆逐していく様も読み取れる。素晴らしい。