odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

アガサ・クリスティ「ABC殺人事件」(創元推理文庫) ストーリーがトリックになった大傑作。WW1の戦争犠牲者は戦間の自信を失ったヨーロッパの姿。ポワロがヨーロッパを救う。

「ポワロのもとに、奇妙な犯人から、殺人を予告する挑戦状が届いた。果然、この手紙を裏書きするかのように、アッシャー夫人(A)がアンドーヴァー(A)で殺害された。つづいてベティー・バーナード(B)がベクスヒル(B)で……。死体のそばにはABC鉄道案内がいつも置いてある。Cは、Dは誰か? ポワロの心理捜査がはじまる!」
ABC殺人事件 - アガサ・クリスティ/深町眞理子 訳|東京創元社


 なーつかしいなあ(by佐藤允@独立愚連隊西へ)。中学3年生のときに、友人から借りて読んだのだよな。数日かけて読んだんだが、見事に撒餌にひっかかりました。おかげでポアロの「さて、皆さん」からあとの謎解きで驚愕しました。さてそれから30数年ぶりの再読。
 創元推理文庫堀田善衛訳。ハヤカワ文庫は田村隆一訳。ハヤカワ文庫版はまだ読んでいないが、堀田さんの手にかかると、格調高い英国文学に早代わり。ポアロは伊達なしゃれ男から高潔な科学者になり、ヘイスティングスもまぬけなお人よしから人格者に。他のポアロものとは違った雰囲気になってしまう。もう少し堀田善衛の訳したものを読んでみたいが、そうなると他の小説のいくつかが書かれなかったと思うと、痛し痒し。さらに困ったことには、創元推理文庫は別の訳者による「ABC殺人事件」を販売するようになったので、堀田訳は入手困難になってしまった(ハヤカワ文庫の田村訳も別の訳に差し替えられた)。こういう余技の仕事は全集には納められないしなあ。
 これはクリスティの傑作群のひとつに数えられる。このあと似た趣向でさらにいろいろ加えたものが量産されたので、今の視点でみると見劣りもすることになるのかな。そのあたりは、起源にあるもの、あるいは古典の宿命。そのかわりに19世紀の英国文学風な心理描写(とはいえ、「アクロイド殺し」に比べると皮相になるのだが)を楽しむことになる。
 機械的なトリックなんてのはなくて、ストーリーがトリックになっている。ここには現在しかかかれていなくて、過去は会話の中にしか出てこない。そして、伝えられる情報はヘイスティングスの見聞きしたことだけ。そのような情報の不足(しかし、手がかりはちゃんと記録されている。記録されている?)が読者を混乱させ、真犯人の真意を隠している。これはたしかに、それ以前の探偵小説にはなかった。このあたりから本格探偵小説がゴシックロマンスと手をきったということになるのだね。すなわちリアリズムへの傾斜、社会への関心。これらが探偵小説に反映されてきた。
 たとえば、重要な人物が戦争の犠牲者として描かれている。第1次世界大戦の総力戦、始まりも終わりもない戦争状態におかれて、精神を病んだ男が書かれている。彼は塹壕の中で、絶え間のないストレスで神経症にかかり、記憶の混乱と自信の喪失が起きている。彼は、たぶん1920年代の典型。思想が崩れ、共同体から疎外され、孤独になった男。たぶんそれは二つの大戦間の自信を失ったヨーロッパの姿。それを19世紀人の典型であるポアロが救う(救ったか?)。そんなメッセージのあるような、ないような。