odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

アガサ・クリスティ「三幕の悲劇」(創元推理文庫) タイトルとは逆に、おきゃんな娘と退屈している大人がひと夏の恋を楽しむ喜劇。

「嵐をよぶ海燕のように、おしゃれ者の探偵ポワロの現われるところ必ず犯罪がおこる!引退した俳優サー・チャールズのパーティの席上、老牧師がカクテルを飲んで急死した。自殺か、他殺か、自然死か。しかしポワロは、いっこうに尻をあげようとしなかった。二幕、三幕と進むにつれて、小さな灰色の脳細胞、ポワロの目が光り始めていく……。」
三幕の悲劇 - アガサ・クリスティ/西脇順三郎 訳|東京創元社


 サウスウェストという芸術に理解のあるパトロンは、引退した俳優カートライトの世話をしている。彼はなにかにつけて俳優気取りでいながら、人気のあるという男。彼らの住まう「鴉荘」でパーティをしていたら、老牧師がニコチンの入ったカクテルを飲んで死亡した。事故死ということになったが、この二人は納得しない。そこで素人探偵ごっこを始めることにする。パーティに集まった連中には牧師の死を望むものも、彼から利益をえるものもいない。行き詰ったある日、別のパーティで今度はストレンジ医師が同じ方法で毒殺された。彼はサウスウェストやカートライトの主治医かつ精神医として有名であった。おりしも、最近医師の雇ったエリスという執事が失踪してしまう。嫌疑は彼に集まるが行方は遥と知れない。
 彼らの探偵ごっこにはエッグとあだ名される若い娘も参加して、パーティの参加者を洗っていく。この娘にはマンダースという婚約者がいたが、無神論を唱えて牧師と論争したこともあり疎ましく思っている。むしろロマンスグレーの魅力あふれるカートライトにひどく惹かれているのだった。彼らの捜査も行き詰ったところに、ポアロ登場。ストレンジ医師の秘密を明かそうという手紙が、かつての患者で今はサナトリウムで療養している女性から届く。素人探偵が訪問しようとすると、到着の直前に彼女は死亡していた。
 素人探偵ごっこが主題になり、彼らがいきあたりばったりに多くの人を尋問する様子が描かれる。まあこれはクリスティのお得意の手法で、なにげないおしゃべりに手がかりが隠されているということになる。それになれないうちは、どうにも退屈で、たくさん出てくる登場人物の関係がなかなか頭に入ってこなかった。これはもちろん読者である自分の問題。カーの書き方なら、尋問は一室で行われて一通りの関係者の話を聞くのに100ページもかかるだろう、それはそれで退屈になりかねない。また、事件の概要は主に伝聞(登場人物の会話)によって行われる。事件そのものの描写はほとんどないといってよい。これがクィーンであれば、父警視や検死医によって直截な描写も行われることだろう。こんな具合に、人びとの会話でもって、他の場所の出来事を読者に報せるというのは、劇作の手法であるのかしら。それに、素人探偵ごっこというのは、引退した俳優や悠々自適の資産家のアイデンティティ捜索のように思え、「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」のように重要でない人物がいい加減な憶測と行動をとっていて、他人の悲劇を理解できない話かと思った。「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」のほうがあと(初演が1966年)なんだけどね。
 なにしろポアロの影が薄くって。ほとんど登場しないのに主人公をかっさらうというところも前節のような感想をもつことになったのだった。あいにく、「三幕の悲劇」のタイトルにこめられた「劇」に意味はまるで違うものだったのけど。これ以上は書けないからやめておく。もしかしたらノックス「陸橋殺人事件」をすこしは意識していたかもしれない。
 詩人の西脇順三郎の翻訳。うーん、これはあまりいただけない。教養のある知識人が翻訳したことで、コメディの軽妙さ(そう、タイトルとは逆に内容はコメディなんだ。おきゃんな娘と退屈している大人のひと夏の恋のお遊びなんだよ)が薄れてしまい、重厚な心理小説になる。途中、自分が読んでいるのはセイヤーズではないかと思えました。しかし原作はそこまでの深刻さや深遠さをもっていないので、齟齬がでてしまう。詩人の仕事としては珍重したいが、クリスティを楽しむには不適です。

  


<追記 2015/4/6>
 1978年に出た「アガサ・クリスティ読本」に「売れ行き倍増事件」というエッセイ(エリザベス・ウォルター)がのっていて、クリスティの出版事情が書いてある。

 要点は、
1.クリスティの小説は、イギリスではコリンズ社が独占販売。アメリカではドッド・ミード社が販売していた。
2.「アクロイド殺し」1926年と直後の失踪事件でクリスティは有名になったが、販売部数は5000-8000とベストセラー作家ではなかった。
3.1万部を超えたのは1935年の「三幕の殺人」から。以降、売上は1作ごとに倍増するようなベストセラー作家になる。
4.1935年になってペンギンブックスが創刊され、クリスティの作品もペーパ―バックで出るようになった。
5.書誌をみると英米でタイトルの異なるのは1932年から1957年の作品まで。
 ここから次のように推測できる。
 1935年まではイギリスでもアメリカでもあまりクリスティの作品は売れなかった。アメリカの出版社も販促に力を入れてこなかった。1935年からイギリスの評判をうけて、アメリカでもプロモーションに力を入れるようになった。販売時期にはタイムラグがあり、アメリカの出版社の意向で、タイトルの変更や内容の修正が行われることがあった。1960年代になるとタイムラグを作ることがなくなり、クリスマスに最新作を英米同時に同内容同タイトルで販売するようになった。
 英米版の差異で有名なのは「三幕の悲劇」で、英米版では動機や結末が異なっているという。ハヤカワ文庫(田村隆一訳)がイギリス版で、創元推理文庫西脇順三郎訳)がアメリカ版。自分はハヤカワ文庫は未読なので、差異の詳細はわからない。
<参考エントリー>
odd-hatch.hatenablog.jp