odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

フィリップ・マクドナルド「ライノクス殺人事件」(創元推理文庫)

 「ライノクスの社長フランシス・ザヴィアー・ベネディック、通称F・X。会った者はたいてい彼のことを一目で好きになる。しかし唯一の例外たるマーシュは、彼に恨みを抱き続けているという。積年の確執に決着を図るべくマーシュとの面談を約した夜、F・Xの自宅で時ならぬ銃声が――。ゲーム性に富み稚気あふれる作風で知られる著者ならでは、結末で始まり発端に終わる実験的手法の得難い収穫。コレクター垂涎の佳品が新訳で登場。」
ライノクス殺人事件 - フィリップ・マクドナルド/霜島義明 訳|東京創元社

 前半はサマリーのとおり。第2部は、捜査報告書およびライノクス社の資金枯渇の機器と保険金入手による返済に関する書簡。第3部になると、新しい社長とそのフィアンセによる会社の危機の乗り越え。ジェイムズ艦長なる男による恐喝をいかにして撃退するか、ここで新社長のしかけるコン・ゲームが楽しい。最後に驚愕の真相。
 解説が紹介しているように、前半の殺人事件の謎はこの国の有名作に似ている。自分としては、ある童話作家のミステリがこの趣向ににていることに気づいた。また、江戸川乱歩がエッセー「奇妙な動機」で紹介していたのを思い出した。まあ、そんな具合なので、読みなれた読者には前半の謎を解くことはそれほど難しいことではない。くどいけれど、推理が優れていたからではなく、読むことで類例を思い出せるから。
 1930年初出なのだが、これは書き方が新しいなあ。この時期の探偵小説というと、探偵か事件に巻き込まれた誰かの特定の視点を通じて描いたものだった。ある人物の視点を通じてしか情報が得られないという書き方になる。探偵視点はヴァン・ダインやクイーンだし、事件に巻き込まれた人の視点というとカーのものになる。まあ、こんな具合で視点を固定することによって、情報の偏りとか思い込みとかを読者にすりこませていくわけだな。そういう作では、ストーリーとプロットは別物。往々にして解決編はプロットを組み立てることによってなされることになる(真犯人の意図と無関係な人物が事件に容喙したことで、事件の全体像が奇妙にみえてしまうとか)。
 一方、「ライノクス」では事件の関係者の同じ時刻に別の場所で行われる出来事を神のごとくみわたし、適当に取捨選択して描かれる。のちのパッチワーク手法みたいな書き方になる。ここではストーリーとプロットが同時進行。その代わり、事後の推理とか関係者の述懐(「そういえばあの時、奇妙なことが・・・」)がないので、事件解決に結びつく情報を後から入手するのは難しくなる。この節はなにをいいたいのかな。まあいいや。ともあれ、書き方というかナラティブというか、「どう書くか」という趣向が新しいのだ。こういう趣向は戦後になるとよく見かけるのだが、1930年という時代でかかれたのがすばらしいということ。
 書き方の趣向としては、第1部と第3部が「恐喝」を主題にしていて、それぞれ解決の仕方が変わっていることに注意。恐喝先は先代社長と次期社長で、その対応方法が対照的なんだ。それもまたユーモアであるのだがね。第1部の恐喝の結果が陰惨なだけに、第3部の恐喝も陰惨な結果に終わるかとおもったら、あっと驚く解決を見せてくれるわけだし。あと、プロローグ(保険会社に汚い包みで現金が届けられること)の意図が不明なまま本文が進むのだが、エピローグを読むと一気にそれが解決する。ここらへんをみると、二重三重の入れ子みたいな仕掛けになっているのだ。第1部の殺人事件だけにフォーカスしていると、作者の仕掛けの全体は見えてこない。
 途中には作者自身の「解説」がはいって、ライノクスは危機に陥っているとか、この人物を見かけるのはここが最後とかちょっかいが加わる。こういうメタ視点の文章があるというのも面白いなあ。同時期のノックス僧正の作みたいに全体としてユーモア小説、それも飛び切りシニカルでブラックなやつ。のちのモンティ・パイソンに通じるユーモア感覚の持ち主。(作者のちょっかいが作中にあるというのは、都筑道夫「七十五羽の烏」が行い、さらに倉地淳「星降り山荘の殺人」が採用して、レッドへリングにしました。)
 なお、作者のフィリップ・マクドナルド、全体像のよくわからない謎の作家なのだが、面白かったのは「リリス」の作者ジョージ・マクドナルドの孫とのこと。へえ、なんか面白い。「リリス」は途中で頓挫して読了できなかった。