odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

アントニイ・バークリー「毒入りチョコレート事件」(創元推理文庫)

 小説家のロジャー・シェリンガム氏は犯罪学に興味をもっている著名人(貴族の弁護士に、劇作家に、探偵小説家に……)を集めて「犯罪研究会」を主宰していた。きわめて厳格なメンバーシップを決めていたので、定員13人のところ6人しかいない。このメンツでいつも犯罪や探偵小説の話をして過ごすのである。この犯罪研究会に入会希望の実業家がいる。ところが、彼は殺人事件に巻き込まれていた。しかもこの事件はスコットランドヤードもお手上げで迷宮入りしそうである。そこで、この難事件を「犯罪研究会」で取り上げることにした。しばらくの間の捜査期間ののちに、それぞれが解決を披露しようというのである。
 この種の「多すぎる探偵」と多様な事件の解釈という趣向の開祖(らしい)。まあ、自分は「虚無への供物」と「匣の中の失楽」のほかに何かあったっけというようなぼんくらなので他の作品が思い当たらない。それらの作品では、いかにも才気走った秀才たちが知識と推論を披露したものだが、この英国作品ではそのような自己顕示はマナー違反であって、アッパークラスに所属する彼らの話はもったいぶって、控えめで、遠回りな説明になる。ここにはクイーンみたいな飛翔する論理もないし、蘊蓄の垂れ流しもない。とても上品な会話が続く(下々の読者はときにあくびをかみころすことになりそう)。

 事件は作者が書いた短編「偶然の審判」と同じ。以前の感想を使うと

「怒りっぽい貴族の下に名無し氏からチョコレートを送られる。そこに居合わせた男が妻の賭けに負けたのでチョコレートを渡さなければならないと愚痴る。ありがたく貴族から譲られたチョコレートを食べたら、男は瀕死の重傷、妻は不運にも亡くなった。怒りっぽい貴族を恨むような容疑者は見当たらない」

とまとめられる。このときには、「偶然の審判」といえる関係者の一人のたいくつなおしゃべりのなかに重要な手掛かりがあった。その鮮やかさの印象が残っていたので、この長編は短編の焼き直しだろうとおもった。じつのところ、事件の説明は30ページに過ぎず、警察が行き詰ったところからの推理比べは250ページも続くのだ。短編では探偵は事件に利害関係のない第三者であったが、長編ではうえの事情があり、それぞれが事件の関係者の知り合いでもある。なので、利害関係の第三者ではない彼らはときに研究会会員のプライバシーを曝露し、ときに犯人と名指しすることもあえてする。その曝露で関係者の重要な情報も得られるのであり、多すぎる探偵は事件の関係者になっていて、誰かの利害に重要な関心をもたねばならないという「後期クイーン問題」を抱えることになる。
(加えると、小説の最後には「解決」が提示されるが、それが正しいかどうかは検証されない。なにしろ物証や犯人の自白など近代捜査に必要な情報がないため。探偵や理性の無謬性に対する疑義が社会にいてはあることになる。これもまた「後期クイーン問題」にあたるのかしら。読者は宙ぶらりんなところにおいていかれて、なんとも不安な気分に陥る。そういう効果も狙ったところが作者の意地悪さ。)
 自分には上記の予断があったので、4番目の推理披露者になったシェリンガム氏が短編と同じ解決を述べだしたときに、これで解決になったか。それにしては後日談が多いなと思った。ところが、そのあと二人がシェリンガムの推理をさらに発展させてひっくり返していく。上のサマリーのように、事件の構図(これもまたのちの探偵小説やミステリーが模倣した趣向)は単純であるが、そこから犯人も動機も重視する手掛かりも視点も異なる6つの解釈を引き出した。このような微に入り細を穿つ論理のこねくりまわし。作者がたぶん楽しんだところ(だろう。俺には詰将棋を作るような根気がないので、おなか一杯で、きちんと消化できなかった)。解説をみたら、別の作家がさらに解釈の屋根を上げたそう。
 この時代の英国探偵小説では、ジェイムズ・ヒルトン「学校の殺人」(創元推理文庫)を思い出した。探偵小説の約束をいかに破るかというところと、探偵の役割に対する疑義提出というところで。本書は古典と言える時代に書かれた(のと創元推理文庫が品切れにしなかった)ので、ミステリー初心者が読むべき一冊になっていたが、こうしてみると上のヒルトン作やノックス「陸橋殺人事件」フィリップ・マクドナルド「ゲスリン最後の事件」みたいに好事家になってから読むべきだ。

  

<参考> 「毒入りチョコレート事件」の日本版変奏。

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