クラシック音楽を聴いているだけの立場からすると、もっとも魅力的に思えるのは100人のオーケストラを前にしてタクトを振る指揮者。ここにはたとえばカラヤンあたりのイメージ戦略に乗せられているところがきっとあるに違いないにしても(またこのような思いを持つようになるというのは、TVやフィルムなどの映像を通じて指揮者を見ることになれてきたからだろう)、やはり自分は音を出さないにもかかわらず音楽を統御している存在であるというところに惹かれるのだ、と思う。その世界では指揮者はそれぞれの演奏者に神託を告げる巫女あるいは神そのものの立場にたつことができるからだ。それこそ、儀式を統括する司祭よろしく演奏者よりも一段高いところに上って(しかも観衆に尻を向けて)、全員の注視を得られる立場にいることが快楽になるのだ。(このあたりに意識的で演出にたけていたのがカラヤンとストコフスキーで、その存在において司祭あるいは神のようであったのがフルトヴェングラーとトスカニーニだろう)。
とはいえ、この頃は指揮者の威光も衰えてきて、聴衆あるいはCD購入者は現存の指揮者をあてこすることが快楽になってしまっている。しかも、多くの素人が指揮をしかつCDを世界的に販売できたことを見聞きしているので、自分にもできることだと思ってしまう。そして自分が指揮者でないのは運がないからだと思いたい。何しろ、高度経済成長期には男子たるものの一度はあこがれる立場として、軍隊司令官、プロ野球監督と並んでオーケストラの指揮者があげられていたのだ。
そういう予断を吹っ飛ばしてくれるのが、現役の指揮者(2003年当時)であるこの人、この本。われわれ素人がやりたがる指揮マネは指揮者の訓練にはまったく不要と断じていて、日々夜々訓練に講じている指揮マネ者を一刀両断にしているのだ。指揮者であるには知識とテクニックと情熱が必要ということであり、それはほとんどすべての職業でも同じこと。ただそこから先のところで、世界的な存在であったり多くの人に羨望されたりするようになるのか、ただの凡人としていつ馘首されるかおびえる存在になるのかは、運もあるのだということになる。まあ、そこまでは書いていないし、また指揮のテクニックをいかに手に入れるかは文章にしがたいということになる。著者にとっては、指揮者という職業はアルチザンであるということなのかしら。
この指揮者はドイツ古典ものはあんまり調子よくなくて、20世紀の現代ものが得意ということになる。黛、武満と相性がよくて、芥川や伊福部、團とはよくない。最高傑作は1960年にN響といれた外山雄三「管弦楽のためのラプソディ」かな。
もうひとつ合唱指揮者としての仕事で、武満徹「日本合唱曲全集「風の馬」」も推薦。