odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

大江健三郎「大江健三郎全作品 第1期」巻末エッセイ(新潮社)「大江健三郎同時代論集第7巻 書く行為」に収録。模索時代の曖昧模糊とした文章

 1965年から翌年にかけて、「大江健三郎全作品第I期」全6巻(新潮社)が刊行された。その際に、各巻末にエッセイが収録された。のちに、岩波書店で刊行された「大江健三郎同時代論集全10巻」のたしか第9巻 第7巻「書く行為」にまとめられた。ここでは「全作品第I期」で読んだ。タイトルの後ろの数字は収録されている巻数。レビューは発表順(なので、巻数と順は一致しない)。


作家自身にとって小説とは何か?(6) 1966.02 ・・・ 1957年から小説を書く生活をはじめて10年たった中間まとめ。サルトルの議論のように文学の社会的有効性について考えている。いまのところは、自分の中の「狂気めいたくらい恐ろしいもの」に押しつぶされそうな恐怖や不安を感じることに、それらを明確に自分の意識にだすことで対処してきた。それが小説を書くということ。その仕事でもって、他者と共通の地層へと降りていくことを目指したい。(ここは「個人的な体験」の主題に共通するので、該当エントリーも参照されたい。)

本当に文学が選ばれねばならないのか?(1) 1966.04 ・・・ 読んでもよくわからない。タイトルの問いに対しては、「私はそうしました」だけを答えていて、普遍的・一般的な答えを提示するつもりはないようだ。まあ、それでいいのだが。作家の20代、彼の文学的ヒーローであり、メンターにしたのはヘンリー・ミラーノーマン・メイラー(ここには登場しないJ・P・サルトルも加えられる)であることを確認。

ハックルベリー・フィンとヒーローの問題(2) 1966.07 ・・・ アメリカのヒーローないしアメリカン・ドリームの体現者として、ハックルベリー・フィン、リンドバーグJFKを並べる。いずれも神話時代のヒーローのような完全性、完璧性を持たず、欠陥ばかりの人間。そのようなヒーロー不在の時代に、小説のヒーローはどうありうるのか? 結論なしの文章。

作家は絶対に反政治的たりうるか?(3) 1966.09 ・・・ 反政治的でありうるとする評論家もいるが、その活動は強権の支持ないし強権の論理の代弁に過ぎない。現代社会においてどのような表現も強権の規制や抑圧の対象になるのであり、そこで「反政治的」立場はありえない。それを主張することは「これ以上考えなくてよい」「誰ももう考えなくていい」と読者ほかに思わせることになり、それこそ強権の望む代弁なのである。なお、さまざまな強権や抑圧に対して個人的に対抗するのは困難なので、多くの人々が参加・支援することが必要(たとえば「政治少年死す」「ヒロシマノート」の例)。「チャタレー裁判」ではあれほど多くの文学者が強権に闘ったのだから。

作家は文学によって何をもたらしうるか?(4) 1966.11 ・・・ なぜ文章を発表するのかというと、「自分が自分自身の存在の根にむかうことによって、他者にかれ自身の存在の根に向かう緊張を喚起したい」からだ、という。ここは明確だが、その論証部分がすごくあいまいで朦朧としていてよくわからない。

作家としてどのように書くか?(5) 1966.12 ・・・ 作家自身が何を知っているかわかないまま知っていることを、ドロドロした塊である言葉とイメージのままだし、訂正と補強を繰り返すことでひとつの「形式」を持たせる。そこには緊張した意識の力が必要。この作家の仕事を小澤征爾(とは書かれていないが)の指揮や、武満徹の作曲と類比する。これだけのことで20枚くらいのエッセイにした。核は明確だけど、細部はあいまいで朦朧としているなあ。


 30歳に近づいてからの10年間の仕事はとかく難解だといわれている(「空の怪物アグイー」「個人的な体験」から「ピンチランナー調書」あたりまで)。それはこれらを集中的に読んだ20歳の前後数年間の時に感じたこと。論理の繋ぎが分からず、膨大な言葉の海にで居場所がわからなくなったのだ。当時は、作家に教わった通りに読書しながら赤線を引くようにしていたが、このエッセイにはほとんどなにも書き込まれていないというのはそのあたりの読解の事情による。
 さて、それから35年を経て再読するとき、印象は異なる。そのあと40代以降の仕事を知っているので、この若い時期の作家は説明するための方法や知識を持っていなかったのだ。あるいはそれらを仕込んでいる最中であって、うまく自分の言葉に置き換えられなかったのだ。なので、大量の引用を曖昧模糊とした文章でつないでいる。タイトルの問題はその後も継続して検討されていたので、のちの「小説の方法」「新しい文学のために」「文学再入門」などで平易に書かれる。そちらを読んだほうがよいので、無理して探し出すことはない。