作者によるとホテル・ディックという職業は日本にはなかったらしい。アメリカだとたとえば「チャイナ・オレンジの謎」1934年に登場するくらいにポピュラーなものらしい(この作では脇役として名前が挙がるだけで、仕事の中身は触れられない)。1980年代になって、外国資本のホテルがいろいろこの国に作られるようになって、これならこの職業をフィクションに登場させても違和感がないだろうと作者は判断したのだろう。近代的なホテルができて、ホテル・ディック制をとる一方で、ホテルに入る商店には和風ないし江戸風のものを要求。モダンとクラシックが同居した浅草を活写する。浅草が最も栄えたのは第1次大戦から関東大震災までの10年間ほどで、そこには無声映画とオペレッタの劇場があった。戦後ストリップ劇場ができ(それを作れと依頼したのは浅草寺の住職その人らしい)、酔客を笑わせようと芸人が競った。それから60年もたつと、古風さが懐かしくて新しいと思える不思議な町に変貌している。1980年代に何度も浅草に行ったことがあるので(つらい思い出もあるのだ(笑))、小説の風景は懐かしい。
で浅草に「ハイライズ下町」という近代的なホテルができ、元刑事の「おれ(田辺)」はホテル・ディックに採用された。ほぼ住み込みの生活。社長は下町らしさをホテルの雰囲気にもとめ、上司の小太刀は切れすぎて「おれ」にはあわないようだ。それに一人娘は生活力のなさそうな編集者と結婚していて、悩みはつきない。それにオープンから死体にやくざにふりまわされて、休む暇がない。
死体のロンド ・・・ ホテルの顧客から「人を殺した」と電話があったが、その部屋に見つからない。別の部屋で見つかる。死体が消えて現れというのがロンドだな。
エンコ行進曲 ・・・ 盛岡の高校生の同窓会がホテルで行われ、恩師が殺された。出席者は20年ぶりくらいに会うというのに、どうして殺すのか。エンコの六というスリが登場。彼のいたずらで「おれ」が右往左往するのが行進曲。
黒猫のボレロ ・・・ イタリアの元政治家がお忍びで来日し、ホテルに宿泊。彼の命を狙うというヒットマンも来たという情報が入る。そして、政治家の秘書が刺殺体で見つかった。フェーズがどんどん変わっていくけど、被害者の問題にはかわりがないよということでボレロ(ちょっと苦しい。ちなみにボレロは同じリズムフレーズにのって、旋律がいろいろ変奏するスペインの舞踏曲のこと)。
石鹸玉ワルツ ・・・ 新婚夫婦から苦情があって、幽霊がでるというのだ。ほっとけないから部屋を変えたのだが、元刑事の「おれ」にはピンとくるものが。犯罪物語は他愛もないけど、エド・パイクなるマジシャンの縁故探しやホテルを巣にする娼婦の話などいくつもの話が同時進行。そのあたりが「ワルツ」かな。
タイトルには音楽用語が使われているのがこの短編集のひとつのみそ。まあ、「ロンド」だけが音楽用語とストーリーに関連してくるだけなのだが。一作品あたり百枚の長さ。ここでは、探偵小説らしい推理とかたくさんの登場人物の尋問などはでてこない。代わりにあるのは、シリーズに登場するサイドマンの描写。本筋と離れたところで、たとえば元スリの老人とかアメリカ生まれのマジシャンとか、日本生まれの黒人で元コメディアンのドアボーイとか、前歴不明の骨董屋店主とか、強面のヤクザにいきがる部下とか、とうのたった娼婦とかを楽しんで書いている。ここに昭和初期の文物、浅草の思い出、などなど。読書の楽しみはこちらのほうが大きい。
ホテル・ディックの田辺はすでに娘が家を出て、ホテルの一室を住居にしている。滝沢紅子の父は集合住宅の警備員で息子ともども警備室につめっきり(紅子の母は亡くなっている)。退職刑事は警官になった息子の家にしょっちゅう出入りしている、やもめの老人。このあたりの孤独な老人像は共通しているわけで、ときとしてシリーズをごっちゃにする人もいるみたい。それぞれのシリーズの背景は地続きであるかもしれないが、まあ、ここでは別物であるとしておこう。