odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

ギルバート・チェスタトン「ブラウン神父の醜聞」(創元推理文庫) 神父、労働者とボルシェヴィキに会う

ブラウン神父ものの第5作。1935年初出。

ブラウン神父の醜聞 ・・・ メキシコの観光地にアメリカの有名な婦人が逗留していた。脱線すると、1930年代のメキシコはとくに共産圏の亡命者に寛大で、トロツキーエイゼンシュタインらが亡命していた。若い夫といっしょで、老けた中年男が追いかけている。若い夫は金に飽かせてホテルの従業員全員を買収したので、婦人は神父の部屋から逃げ出さざるを得なかった。それがブラウン神父のスキャンダルである。もちろん、真相は別に。なお、アメリカは公的(public)な有名人は育てないが、マスコミは世間的(populer)な有名人を生むと書いている。publicとpopulerの違いについてこの国の人々(自分を含む)は敏感になること。

手早いやつ ・・・ ホテルのバーは閑散としていた。そこにウィスキーメーカーのセールスマンが集団で集まり騒ぎ出す。そこに宗教団体主催にして禁酒主義者がほかの店がのみなみ閉店なのでやってきてミルクを頼む。さらに皮肉で辛らつな不平家の爺さんが飲酒主義者と禁酒主義者をこけおとす。騒ぎの始まる前に、神父と一緒の警部がとりなした。翌朝、不平家の爺さんが毒殺されているのを発見される。神父はだれのものかわからないいっぱいのウィスキー入りグラスから「手早いやつ」が事件の鍵を握ると、警部に捜査を依頼した。たったひとつの証拠から合理的な判断を下すストーリーのあざやかなこと。クイーンの「エジプト十字架」「中途の家」「ガラスの村」に匹敵する離れ業!

古書の呪い ・・・ 懐疑主義者のオープンショー教授は心霊術の信奉者に冷や水を浴びせ、唯物論者を論破している。さて、彼の事務所に古書の収集家が現れ、この本にはのろいがかかっている、読んだ人間は全員失踪している、ついては調査してくれ、と頼んだ。受け入れると、事務所では本が開封され、事務員が失踪している。本の持ち主であるハンキー教授ものろいのせいだ、とわめきたてる。「サラディン公の罪」「クレイ大佐のサラダ」「金の十字架の呪い」「マーン城の喪主」という具合に必ず一本は収録されている作者おとくいの仕掛け。

緑の人 ・・・ 求婚してきた男二人を持つ娘のために、元船乗りの老人は遺言状を用意していた。しかしその翌朝、刺殺された死体が沼で発見された。神父はもちろん最初の報を聞いたときから真相を見抜いていたのだが、彼はむしろ娘と求婚者を気にかけていたのであった。「ペンドラゴン一族の滅亡」「世の中で一番重い罪」「ヴォードリーの失踪」のように、遺言を書くというのはどうも一族にこもった怨念というか執着をあからさまにするらしく、チェスタトンの作品では暗い影のあるイベント。

ブルー氏の追跡 ・・・ 百万長者に雇われた探偵が仕事にしくじりそうになったので、神父を訪れる。百万長者は長年、近親者に脅迫されていたので気も狂わんばかり。なので、脅迫者を捕まえろということになり、嵐の夜に浜辺から突き出た桟橋の先にある小屋に追い詰めた。そこで格闘があり、探偵は昏倒。二人はいなくなっていて、桟橋の管理人は夜通し見張っていたが、誰も通らなかったと証言する。まあ、探偵の思い込みからくる「見えない人」のバリエーションなのだな。なるほど、われわれは外見からその人の内実を推測するのであるが、ときにドクサや偏見にまみれるというわけだ。端的には金持ちは立派な服を着て、詩人は汚い服を着ているというような。

共産主義者の犯罪 ・・・ 大学の経済学の講座に寄付しようという奇特な資産家が構内をくまなく見学している。居合わせた人たちが彼らを見つけたとき、毒殺されていた。構内にいたのは、学長、経済学部教授、会計主任、共産主義者、化学部の教授、それにずんぐりした神父。毒殺の凶器になったマッチをもっているというので、共産主義者が逮捕される。しかし、神父はそうではない、みんなの会話は社会体制についてだったが、それは社会主義共産主義についてではないという。PearlというイギリスのレーベルがだしたふるいCDに「The Rise of Communism」というのがあって、1930年代のイギリス共産党の演説や歌が収録されている。この時代は、それくらいにボルシェヴィズムの影響が強く、支持者も多くいたのだった。「The Rise of Fascism」というCDもあり、イギリスのナチ党の演説や歌が収録されている。そういう具合に、ファシズムとボルシェヴィズムが民主政治と拮抗していたのだった。

ピンの意味 ・・・ 高層ビルの建築は佳境に入っていたが、労働者たちに賃下げ予告をしたせいか、組合は強硬姿勢をとっていて、ストライキにもロックアウトにもなりかねなかった。おりしも事業の経営者を標的にした脅迫文がとどき(なぜか木材に刻まれた文字)、経営者は子飼いの探偵の報告を聞いて青ざめる。その翌日、経営者は失踪した。労働者とともに働き、経営会議にも出席する甥は自殺したのだ、と告げる。神父が謎を解決したのは、建築の音が聞こえなかったため。

とけない問題 ・・・ 村はずれの家で、半身不随の爺さんが部屋から消えた。死体は庭の木につるされ、剣で刺されていたが、いずれも死後につけられたもの。死体の周辺には爺さんの足跡と手のあとしかみつからない。息子夫婦は奇妙な宗教的情熱を神父にわめきたて、フランボウ(久々の登場)はありすぎる手がかりを検証する作業に没頭する。まあ、「赤毛連盟」のバリエーション。文体がしっかりしていると、これほどオリジナルにみえるのだね。

村の吸血鬼 ・・・ 閑静な村に派手な女がやってきてセンセーショナルを巻き起こしている。見た目だけでなく、彼女は牧師の息子といちゃついているのを何度も見られているので。村人は激高し不測の事態さえまねきかねない。そこで神父が訪れ、よくよく聞いてみると、彼女は1年前に村で殺された男(劇団主催者の俳優)の妻であった。そこで事件を再調査すると、男は撲殺されたのではなく、毒殺されていたのであるとわかる。はてさて1年前になにがあったのか。事件の真犯人の意外な隠れ方。


 ここにいたると、以前の作品によくあった田舎屋や貴族の屋敷というものは影が薄くなり、かわりに資本家とか労働者とか、その時代の特徴的な階級が登場するようになる。事件もときには、都会でおこり、近代的な科学技術の成果を使うことが当たり前になっている。作者が批判していた資本主義とか快楽主義が世界を席巻してきて、どうにも無視できないくらいになっていたのだろう。大きな変化は1930年の大不況とふたつの全体主義国家の誕生か。これによって、イギリスの貴族趣味とか現実主義的な倫理が大きく揺らいでしまった。第一次大戦の思想的な影響をチェスタトンも免れなかったのかな。
 というのも、チェスタトンの探偵小説は19世紀末から20世紀初頭のものを踏襲していて(あるいはそのパスティーシュとして書かれていて)、意匠は古いのだ。こんなまとめ方が可能かな。彼の信奉する文化とか依拠する社会というのは19世紀末のイギリスのものであって、それを支えるのは宮廷文化の参加者(貴族とか王族とか)とインテリエリートと古くからの資産をもつジェントルマン。表層の仲睦まじさと、影のルサンチマンとか野心などが分裂して、きわどい均衡をたもっている。ときにエネルギーが噴出するのが、犯罪・不義・密通なのである。彼らのすみなす世界の思想的・精神的な分析を物語化したものが探偵小説。そこでは怪奇小説との差異は希薄。ただ、解釈の仕方が近代的。その一方で、このような19世紀文化に対抗する変化には批判的であり、ジェントルマンの倫理やモラルを対置させなければならない。そうやって「市民社会」を防衛しなければならないのだ。こういう小説をチェスタトンは構想していた。でも、やはり1920年代になるとどうにも古さは否めず、作者のアイロニーのはけ口がパロディとかファンタジーとかで糊塗されたのだ、ということかな。これは同時代人の僧正ノックス師にも通じるな。このふたり、とてもよく似ている。
 さらに時代が経過して、1930年代の不安な時代になると、チェスタトンの文化を成り立たせる階級が一斉に没落。まあ路頭に迷うか、労働者になるかして消え去り、成り上がりの俗物が文化を産業として主導するようになる。こうなると、もはや階級のもつ教養は価値のないものになり、犯罪で噴出する19世紀文化の問題は解決に値しない無駄なものになるわけだ。チェスタトン晩年のこの短編集には、こういうきしみを読むことができる。チェスタトンはこのあと、イギリスと西欧の再度の破滅をみることはなかったわけで、あと10年を生きて戦後をどのようにみたか。沈黙したか、孤立無援のアナクロな主張を書く笑いものになっていたか。
 そのような変化を積極的に肯定すると、クイーンのような都会人のスポーティブなクイズになり、ハメットのような労働者階級の無骨な代弁をしたり、アイリッシュのような都会人の孤独と恐怖(おもには失業と失恋)を描くものになる。といってしまおう。イギリスの探偵小説が、アメリカのようなスタイルに変わるには、第2次大戦を経験しなければならなかった、と思うと、チェスタトンはまだアナクロな小説を書いていたのかもしれない。でもチェスタトンの方法はたぶん袋小路であって、19世紀文化そのものを批判するスタンスで探偵小説を書く人々によって、新しさを獲得するのだろうな。それがたとえば、エーコとか笠井潔とかだったりして。


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