2020/04/07 デイヴィッド・リンゼイ「アルクトゥールスへの旅」(サンリオSF文庫)-1 1920年
2020/04/06 デイヴィッド・リンゼイ「アルクトゥールスへの旅」(サンリオSF文庫)-2 1920年
2020/04/03 デイヴィッド・リンゼイ「アルクトゥールスへの旅」(サンリオSF文庫)-3 1920年
コリン・ウィルソンの助けを借りて、マスカルに起きたことをまとめてみるか。ウィルソンによると、リンゼイの思想は「仏教的現生棄却」「宗教的真摯さ」「崇高な世界(の希求)」「夜と混沌」「すべての否定」「進化的ヴィジョンの欠如」だそう。この指摘はその通りと思うので、特に追加することはない(仏教的現生棄却には違和感があるが、仏教を良く知らないのでことばにできない)。
さて、トーマンスの世界は二元論ないし二項対立でできている。おおむね世界はクリスタルマンによって支配、統治されている。これは快楽原理に基づくもので、生の目的や生きがいは快楽にある。食が不足することはなく(したがって労働がない)、性に飢えることもなく、感情の吐露を抑制することはなく、他人の視線に怯えることもなく、現生の充溢があれば事足りる世界である。少数には他者(異種の生き物をふくむ)危害を嫌って、食を忌避する者もあるが、全惑星的な倫理ではない。それはすくなくとも当時のビクトリア朝モラルが社会に浸透しているイギリスにおいては魅力的な世界であるはず。キリスト教的な禁欲と節制はここでは高評価にはならない。
しかし地球の生活や社会になじめないマスカルは、同じく快楽をベースにした生の地球に飽き、生をより偉大なものにしたいと考える。トーマンスに来た理由はわからないものの(クラッグの意図によるのはわかっても、その内容は不分明)、自己発見や自己変革の契機を持ちたいと思う。そしてトーマンスの森、高原、平原、湖、高原、海などをさまよい、それぞれの場所でマスカルをまっていたらしい人と会話し、冒険する。ときに激しい衝突は殺人になり、身体の改造と意識の拡大をもたらす(殺人を除いてはバニヤン「天路歴程」に似ている)。その結果、彼はクリスタルマンの快楽原理を物足りなく思い、さらに彼らの弱さを嫌悪するようになる(すなわち、彼らが死んだとき、ないしマスカルが殺したとき、クリスタルマンの下卑たにたにた笑いが現れること。彼らの言葉や行動が公明であっても、クリスタルマンの傀儡で代弁者なのだ。自己が唯一の存在であり、ユニークであることを願うマスカルには耐え難い)。
そこで、彼はクリスタルマンの対向者であるサーターの正体を知ろうとする。サーターは悪魔とされ、クラッグも同様な悪魔である。それらは快楽を否定し、偉大さに至る道は苦痛であるという。苦痛がいかに偉大さに達するかについては、さまざまな人がマスカルに説明するので、サマリーを参考に。
とはいえ、快楽の否定、苦痛を経ての自己犠牲という階梯を登ることはきわめて困難。なぜなら最終章でナイトスポーが見たヴィジョンのように、生命粒子の行動原理がマスペルという世界創出と維持のエネルギーに対して盲目であり不満の状態にあるから。マスペルの光と合一化しようとしても抵抗にあい(たぶんクリスタルマンの存在とは無関係)、快楽の泥沼に幽閉されて、生命の火花が骨抜きになり、堕落させられているから。おそらく幽閉や堕落の現状を認識している生命粒子はなく、わずかにクラッグ、ナイトスポー、そしてサーターのみが解っている。クラッグは俺たちの方がクリスタルマンより強いとうそぶくも、彼我兵力差はいかんともしがたい、とみえる。
まずは世界の在り方そのものが間違っているのである。生命粒子も世界の間違いの上に乗っかっているので、クリスタルマンのような欺瞞の手のひらから逃れることができない。なので、死ぬことによってその本生があらわになる。では、そこにおいて間違った世界からの脱出方法あるいは自己変革の可能性はあるかというと、「苦痛」しかないという心細い話にしかならない。苦痛のすえの自己犠牲の愛を貫徹した数名の女性(タイドミン、グリーミール、サレンボウド)も、クリスタルマンのにたにた笑いを浮かべるとなると、どこまで厳しい苦痛が必要であるのか。
(このような快楽と苦痛の相克、その克服というテーマは、ロバート・スティーブンソン「ジキル博士とハイド氏」に共通しているのかもしれない。科学時代の人スティーブンソンは薬の発明に向かい、神秘主義者リンゼイは意識の拡大と修行(ないし冒険)に向かった、といえるか。二人に共通するのは、克服や解放のモチーフがないこと、破滅か永遠の闘争という悲観的な思いになること。ここに同時代のウェルズを加えると、19世紀末のイギリス知識人は世界の在り方にペシミスティックで、人類が退廃に向かい、世界はいずれ破滅するというイメージにとらわれていたのかもしれない。サンプルが少なすぎて、断定できないけど。)
このような世界認識と自己改造の系譜をつくろうと思えばつくれて、西洋社会に限れば、グノーシス主義があり、マイスター・エックハルトやエロイーズのような中世神秘主義者から、ドストエフスキーの小説世界に現れる鞭身派のようなキリスト教異端に、シモーヌ・ヴェイユのような女性思想家まで上げることができるだろう。作者デイヴィッド・リンゼイは彼らにたぶん近しい。ただ、このような世界認識を小説世界に描いたとなると類例を他におもいつくことができず(もしかしたら晩年のPKD?)、この浩瀚な「アルクトゥールスへの旅」を描き切ったことは賞賛に値する。
(とはいえ、このような世界認識を自分は共感、共有できないので、この小説はすごいと思うが、熱烈な支持を表明することができない。長らくサンリオSF文庫は絶版・品切れで古書価は高騰していたが、最近2013年文遊社からハードカバーで再版されたという。)
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「アルクトゥールスへの旅」の解説は、コリン・ウィルソンのほかに、荒俣宏が「別世界通信」(ちくま文庫)にも書いている。後者はこのエントリーを書く際の参考にはしなかったので、これから読み直すことにする。
読んだ。(荒俣宏は自分で「アルクトゥルスへの旅」(国書刊行会)を訳出しているので、中村保夫訳とは人物名の表記が異なる)
「マスカルたち奇怪な三人組の冒険ははじまる。謎の相棒ナイトスポァと悪魔クラーグは、古くからサーターと呼ばれる宇宙の創造主を追いもとめていたことが、ここで読者に知らされる。(P264)」
「巨星アルクトゥルスへの旅が、究極的には「対立する二つの概念の原型」――あるいは中和体を追う精神の遍歴であることを知らされたマスカルは、そこではじめて自分に課せられた任務を実感するのだ。地球の全人類を代表して、この地球に光を投げかけているのが悪魔なのか神なのかを目撃するために選ばれたものこそ、自分だったのだと。/善と悪の対立しあう地球とアルクトゥルス。かれはそこで、地球では善と考えられていたものがアルクトゥルスでは悪となり、アルクトゥルスでは善と考えられているものが地球では悪と呼ばれていたことを発見する。(P265-266)」
「これは宇宙的幻想の進化論でもなければ、一般にいわれるような古いキリスト教遍歴譚の二十世紀化した姿でもあるまい。そうではなく、これは神秘家としてのリンゼイの捉えた、キリストを含む地上のあらゆる人間たちが繰りひろげる〈生きるための地獄図〉の、忠実な「地球照(アースシヤイン)」なのだ。(P287)」
さすが、というしかないまとめ。これを書いたとき、荒俣宏は20代だったのだよ、驚異の若者!
1979年につくられた「A Voyage to Arcturus」の映像!
2020/3/31 デイヴィッド・リンゼイ「憑かれた女」(サンリオSF文庫) 1922年