odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

アーサー・C・クラーク「都市と星」(ハヤカワ文庫)

 19歳のときに読んだはずで、あまりに鮮烈な印象を残しているので、思わず取り上げた。
 舞台は、未来の地球(?)。自然は荒廃し、人類はドーム型の都市を作ってこもっている。機械が人生のすべてを管理する世界。安定しているが停滞から退廃に向かおうとしている。そこに生まれた一人の跳ね返りの子供。彼は世界のルールになじめず、世界を脱出したがっている。そのことに脅威を覚えた都市の保安関係者は彼を抹殺しようとするが、いくつもの陰謀を跳ね返すにつれて、都市と、世界の秘密に触れていく。
 最初は、子供が大人(=親、体制、ルール、すなわち束縛するもの)に対して違和感と不満を持っている状態にあって、それが次第に選ばれた者であることが明らかになる。主人公の子供を理解し助ける兄貴分と知り合いになり、彼がさらに謎の核心に迫る人物を紹介する。彼らの献身的な助力によって、世界の謎を解き明かし、未来を広げる展望を開くにいたるところは感動的だ。これを読んだときも、自分が何かに束縛されているようで、脱出する道筋が見えなかった年齢にあったものだから、主人公には非常に共感したものだった。そして、物語が進むにつれて明らかになる宇宙的なヴィジョンにも、驚愕したものだった。
 ほとんど同時期に竹宮恵子「地球へ・・」なぞを読み、同じ物語が装いを新たにして再話されていることにも興味を持った。とはいえ、クラークほど拡大されたヴィジョンを描いた人はいないので、どうしても後塵を拝す仕儀となる。
 さて、若いときの感想はここまで。この物語のラストシーンは「怖い」のだ。人間の一生どころか、星の一生が幾たびも過ぎた永遠ののちに、ある戦いが行われることが示唆されている。この永遠という長さは、これまでの多くの知性が考えていた無限の時間よりもさらに長い時間の先にあるものだ。この長さを自分のものにしたときは、実のところ、多くの宗教が設定している死後の永遠ですら短いものであるように思える。そのような無限の長さをこの「私」の意識を保ったまま、パーソナリティを持ったまま、現生の記憶を保持したまま、過ごすことはとてつもなく恐ろしいことのように思える。たかだか数十年の人生を経験したに過ぎないが、自分の意識やパーソナリティには多くの欠陥や弱点を持っていて、それを克服することはできないように思える。そのうえでなお、死後の永遠をこの「私」の意識、パーソナリティ、記憶を保ち続けるというのは拷問なのではないか。むしろ自分にとっては、そのような束縛というか頭蓋の中から抜け出たいものだのだが。
 それはさておき、クラークのヴィジョンにはシレジウス以来の「宇宙の熱死」が影響されている。エントロピーの飽和した状態では、分子も原子も振動する力を失い、光を発せず、重力も空間中で均一化して、文字通り何も起こらない状態になることだ。茫漠たる無が現出する。そういうイメージ(ただ最近ではそうではなく、ブラックホールがあちこちにあって、そこだけ虫食いか蟻地獄のように空間がゆがんでいるか、なくなっているかするそうだ。でもってM理論になると、「永劫回帰」が現れてくるような。こんな混乱、もう、先生知りません(泣))。
 ここまで想像力をふくらませ、「熱死」にまで思いを至らせると、さらには前世という意味すらなくなりそうな超時間の果ての「再生」などを想像すると、生命の無窮であるとか魂の不変であるとかはもう意味をもたない。なにしろ、永遠よりも長い時間のことをいっているのだから。かつてはたしかに自分の肉体が滅びることが恐ろしいことのように思え、できれば自分の骨が化石となり地球が太陽に飲み込まれるときに、地球を脱出する宇宙船によって自分の化石が保護されることを夢想したものだ。しかし、宇宙の熱死に至ったとき、もはや形も時間も無に飲み込まれるとすると、そういう夢想の上でも肉体あるいは過去の形態を残すというのはばかばかしい限りの話になり、私の想像を超えたところにある「死」を前にして、自分は単なる塵であり、一瞬の泡であることが当然に思え、そのような生のあり方を納得するのだ
 (下世話な話にすれば、ちまたのスピリチュアリストとか霊視者たちが見通す前世というのはせいぜい百年から二千年程度のことだし。自分の知り合いの「見える人」は自分の前世の記憶を幻視できるそうだが、さかのぼってもせいぜい奈良・平安時代。要するに、文字社会になってからの生まれ変わりの記憶しか保持できないらしい。じゃあ、原子力発電所の製造した放射性物質を管理する10万年がこの先にあるとすると、「生まれ変わり」とか「前世」とかになにか積極的な意義を見出せるのかねえ。)