著者はドイツ政治思想史を専攻するが、一方でキリスト者としての活動も行っている。自分には岩波新書ででた「キリスト教と笑い」が、映画や翻訳のでたエーコ「薔薇の名前」の主題と共鳴していて楽しく(?)読んだ。福音書に書かれたイエスの言行から笑いを見出すという視点は自分は持っていなかったし、イエスが笑ったかどうかが深刻な思想問題になるとは予想もつかなかったのだ。エーコと異なるのは、イエスの笑いをアウシュビッツの極限状態で自分のよりどころとする力強さの表明と考えるという点。ドイツ思想史においてナチスは避けられないし、「アウシュビッツ」で死んだユダヤ人や殉教した牧師の存在は重い。
I.アウシュビッツへの旅
1.ヒトラー支配の爪あと ・・・ ドイツのシェル兄妹によるナチス抵抗運動の紹介。
2.髪の愉快なパルティザン ・・・ ドイツのマルティン・ニーメラー牧師とカール・バルトによるナチス抵抗の紹介
3.ナチと戦った教師たち ・・・ ノルウェーの教師たちによる組織的なナチス抵抗運動。それに協力した市民たち。
4.カイ・ムンク ・・・ デンマークの牧師カイ・ムンクによるナチス抵抗運動の紹介
5.アウシュビッツで考えたこと ・・・ 戦後35年を経て、アウシュビッツを訪問した記録。
ドイツではナチスの戦争犯罪に時効はないと宣言し、実際に多くの地下にもぐった戦争犯罪者を1980年代においても告訴し、処罰した。周辺諸国では戦時中のナチス加担が問題にされた人びともいる。オーストリア大統領候補であったり、ドイツの文学者であったり。1980年代はそのような運動がまだあり、アクチュアルな課題であった。さて、それからさらに数十年がたちもはやナチス加担者もほぼなくなっている。アクチュアリティは薄れているし、一方でナチス的敬礼への強い罰則が残るなど精神は継続しているともいえる。そのような執念とか執拗さを辟易とする人もいるし、「罪」と「責任」を徹底的に考えることを賞賛する立場もある。自分は後者の立場をとりたいと思い、せいぜいこの種の文献を読み続ける程度のことをしている。
20世紀の大量死、国家の圧制、個人の自由などを考えるとき、アウシュビッツとヒロシマと収容所群島は避けて通れない。ナチス、ソ連共産党などの「党」批判は常にアクチュアルであるということ。
II.宗教改革の国々
6.社会主義社会と宗教
7.プラーハの街角で
8.もう一人のルカーチ ・・・ 哲学者ジョルジュではなく、神学者ヨージェフのこと。
9.マルティン・ルターの足跡
10.東ドイツのルター像
以上第2部では社会主義政権下におけるキリスト教会と牧師、信者の紹介。および社会主義政権下における政治思想について。国家が教会を支配するという構図において、ずっと困窮を強いられてきたのだが、東ドイツやハンガリー、チェコスロヴァキア(当時)の1970年代以降はそうでもなくなってきた。キリスト者側からのアプローチがなされ、国家・官僚との対話もあるようにはなった。社会主義思想が宗教に不寛容であることから、どうしてもキリスト教の側が譲歩せざるをえないが、なにかしらの一歩は踏み出している。ルターの史跡は東ドイツに多いが、エンゲルス「ドイツ農民戦争」の影響もあり、ルターは「貴族の手下」「農民の裏切り者」という否定的な評価だったが(かわりにトマス・ミュンツァーが高評価)、生誕500年事業あたりから政治改革に指導者、市民革命の推進者という評価もなされるようになった。あと、プラハではフスの宗教改革が高評価。こういうのが1980年代半ばのありかた。ソ連のゴルバチョフ改革の影響はこれらの東欧の国々には目立って伝えられているようではなかった。だれも1989年を予見していなかった。だから1989年という一年間の動きの大きさと速さは圧倒的だった。それを体験してしまうと、ここに収められた文書は歴史的な証言のひとつ、ということになるのか。
結びにかえて ・・・ ドイツの牧師パウル・シュナイダーによるナチス抵抗運動の紹介。同時に収容所におけるユーモラスな手紙と絵を載せている。
BGMは、オルフ「カルミナ・ブラーナ」とシュレーカー「はるかな響き」、シェーンベルク「ワルシャワの生き残り」、グレツキー・交響曲第3番。四者四様のナチスとのかかわりを聞きとる。