odd_hatchの読書ノート

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ヴィクトール・フランクル「夜と霧」(みすず書房) 期限なき収容状態でいかに希望を持つか、解放後の弛緩からいかに回復するか。

 この絶滅収容所の記録を前にすると、おののき、恐怖し、震撼し、その記述が際限なく続くことに絶句し、沈黙するしかないところにいってしまう。これほどの惨劇をよくも人間が・・・とか、これほどの虐待をよくも人間が・・・とか、これほどの勇気をよくも人間が・・・とか、そういういくつもの「人間とはそれほどまでに・・」・という感想が浮かび、咀嚼できないまま沈んでいき、同情とか憐憫とか憤怒とか激情とかそういう感情も、圧倒的な事実の前ではとてつもなく些少なもので・・・、という中途半端で、しかも救いというか寄りかかれるというかそういう自分を鼓舞とか慰安にみちびくものもなく、ただうなだれるしかない。自分の感想をどうのこうの、世界の平和をどうのこうの、ということをこの圧倒的な事実の前で、しゃべることができなくなる。いったん括弧にいれないと平和とか人権とかを言うことができないのではないか、とロックやカントにも頼ることのできない場所があることをしるといういたたまれない感情。ここら辺は、いいかげんな気持ちの揺れ動きを書くしかないことを自分に恥じるしかない。
 いくつか。
ナチスはべつに天才とそれに率いられた陰謀組織ではない、そして絶滅収容所の蛮行は狂気の沙汰では決してないこと。そこにいたのは、ちょぼちょぼの普通のおっさん、おばさん、アンちゃんに姉さん、爺さんと婆さんであって、彼らが制服と辞令をもらうことで、あの暴力が行われた。同じ話はユリウス・フチーク「絞首台からのレポート」にもあり、この国では遠藤周作「海と毒薬」にもあって、町の温和な洋服屋が中国で苛烈な憲兵であったという。あるいは森村誠一「悪魔の飽食」にある731部隊もたんなる官僚の集まりであったということ。観念の「狂気」にとらわれず、単なる仕事として収容所の所員を勤められるというところは、我々は自覚的であるべき。ある種の人にとっては看守になることは栄達であり、失業や飢餓の心配をなくすことであり、社会の差別から解放されることでもあった。作中では、町の不良とも思われていた20歳の少女が看守になることで始めて「自己実現」を果たし、だれよりも苛烈で暴力的で、しかし上司の命令に従順でノルマを常に達成する優れた「労働者」になったのが語られる。敗戦後の裁判で死刑になったという悲痛な結果。
ナチスの暴力が、クーデターではなく、民主的な手続きによって承認されたということ。これはスターリン政権も同様。議会や政党党員の賛成が、彼らの民主制を剥奪していったということも重要。
ナチスの暴力は彼らの創意によるものではないということ。彼らはソ連共産党による粛清、収容所を知っていた。その仕組みを洗練して、これらの絶滅収容所に結晶したのだった。そのノウハウは、第二次大戦後のたくさんの軍事政権、共産党政権で模倣されたのであった。
ナチス絶滅収容所ソ連収容所群島も、アングラにはその存在を国民は知っていた。しかし、国民は彼らの政権下にあるとき、口をつぐんだ。別の国家に占領されたとき、彼らは知らなかった・命令されたやったと釈明した。たぶん似たようなことはどこの国にもある。われわれも、この国の共産党員や労働組合員の弾圧や中国戦線での虐殺などをアングラで知っていた。しかし口をつぐんだ(知っていて口をつぐんでいることは誰にでもあるはず。自分にもこのサイトの読者にも)
・収容所の暴力は、人間のプライド、尊厳、自分が自分であることの意味などを喪失させた。そこに飢餓、不衛生、病気、などなどが重なる。暴力や飢餓は「俺には価値がない」と思いつめさせる。本文にあるように「よい人はみんな死んでいく」。そういう場所。レボ(模範囚人)のような収容所所員の側に立つことによって、生きながらえることを保障され、新たな囚人に対して看守や所員よりも酷薄な暴力を振るうようになる囚人もでる(ドストエフスキー死の家の記録」ではこういう連中は囚人たちにもっとも蔑まれたのだったが)。

 以下、目次ごとに内容をまとめる。
1.プロローグ
2.アウシュビッツ到着 ・・・ 囚人の心理の第一段階はショック。自己に価値がないことを強制的に思い知らされる。
3.死の影の谷にて ・・・ 心理の第二段階は無感情、無感動。悲惨さへの慣れ。他者への感情の欠如。このときには栄養失調と過酷な労働で疲れきっている。看守たちの暴力は日常的。朝の目覚めがもっとも恐ろしい。悪夢よりも現実が悲惨。食への渇望。「胃のオナニー(食の話で飢餓の憂さを晴らす)」。
4.非情の世界に抗して ・・・ 一方で内面化が進む。片隅で行われる祈祷や交霊会。妻のリアルな白昼夢。芸術への関心。ユーモアを生活にもたらす。
5.発疹チブスの中へ ・・・ ダッハウに移動。ここにはガスかまどがないので、囚人は歓喜した。収容所で生きながらえる最も重要なことは「決して目立つな」。そのために「群集に消えうせろ」(あいにく、この戦略が通用しない収容所が別にあった)。他人に質問されたことには真実を答え、問われないことには沈黙する。ほんの数分間で運命は分かれる。運命に翻弄された命。
6.運命と死のたわむれ ・・・ 発疹チブスに罹患したが医師であったので、囚人の医師になることを受け入れる。その後は病囚収容所にいる。囚人は数分間の間に、生死を決する決断を迫られる。これは「地獄の刻」。囚人は飢餓と睡眠不足で、いらいらし興奮しやすい。またコンプレックスを持っている。それがイライラと興奮に拍車をかける。
7.苦悩の冠 ・・・ 収容所には「収容所囚人」と人間的であったものがいた。前者になるのは、精神的人間的に崩壊していったもの、内面的なよりどころを持たないものである。囚人の状況はいつ解放されるかわからない(ここがソルジェニツィン収容所群島」の囚人との違い。ソ連の囚人は釈放まであと何日か数えることができた)。状況はつねに「期限なき仮の状態」である。そこでは囚人は正常な世界(「現実」なのだろうな)を存在しなくなったかという感情を持たざるをえない。多くの囚人は(自己の)価値を実現する可能性は先であると考え(だから世界が存在しなくなる)、貧しい生活をする。少数のまれな人は内的な勝利(収容所の生活で「感謝」を感じ、他者を助ける行為をする)を得ることができた。
8.絶望との闘い ・・・ もっとも美しい(それは悲惨さの表裏ではあるが)挿話が語られる。その前に、囚人は未来を失うと自分のよりどころを失い、内的に崩壊し、身体的にも心理的にも転落する。そうした人は世界認識をシャットダウンし暴力にも言葉にも反応せずに緩慢な自殺を遂げる。自殺、自己を無にすることに陥らないためには、人生の意味の問題に自ら「正しく」答えること、人生が各人に課する使命を果たすこと、日々の勤めを行うことに対する責任を担うことでもって応えるのである。答えは人により、瞬間ごとに変化する。人生の意味に対する答えは一般的には応えられず、個的である。漠然としたものではなく具体的である。たいていは未来に待っているもの(子供との再会、恋人との抱擁、仕事の達成などなど)として表現される。その際に「苦悩の極みにおいて昂められる」のであり、それ(苦悩)を直視することが求められる。そのときの涙は恥じる必要がない。このような話を、一日の絶食でイライラし、かつ停電の夜(レヴィナスの「不眠」であるかしら)に、囚人に行った。停電の終えたあとに見出したのは、目に涙を浮かべ感謝を表明しようとする仲間のみすぼらしい姿であった。
(注意するのは、未来に待っているものは個人的、個別的であるということ。クリスマスや正月に恩赦があるのではないかという「希望」をもつとその日までは生き延びられるが、その日を過ぎると希望をなくす。実際、このような祝日のあと、死者が増えたという。)
9.深き淵より ・・・ 「深き淵より」は聖書のことば。バルビュス「クラルテ」のある章も同じタイトルだった。さて、囚人の心理第三段階。解放後。抑圧からの解放、自由の実現の際に起こるのは、内的弛緩(現実性の欠如とか無感情とかだろうか)。何も感じず、事実を受け入れられない。そのあとに大量の食事と大量のおしゃべり。これらにより圧迫が融けていく。止められない衝動である心理的緊張から解放された後にも、障害は残る。ひとつは道徳的不健康。不当な場所で暴力と飢餓を経験したものは誰に対してでも不正を働いてよい権利があるという錯覚。もうひとつは彼らを受け入れる現実に対する不満と失望。特別な体験をしたにもかかわらず、社会と世間の人びとはよそよそしく彼の言葉に耳を傾けない。収容所の飢餓と暴力を耐えるために必要だった未来に待っているものが失われていることによる不満と失望もある。そして彼はこの世界に「幸福」はないと考える。そして自分が収容所を行きぬくことができたか理解できなくなり、時として収容所を美しい夢とおもうときもある。
 収容所から解放された人への支援プログラムの例。
レナ・ジルベルマン/マリ・エレーヌ・カミユ「百人のいとし子・革命下のハバナ」(筑摩書房) - odd_hatchの読書ノート


 最後の章は、それこそ「特攻隊」くずれ、ベトナム帰還兵、共産党収容所群島の生還者らに起きたこと。ソルジェニツィン収容所群島」、生井英考「ジャングル・クルーズにうってつけの日」(ちくま学芸文庫)、幾多のベトナム戦争帰りの映画(「タクシー・ドライバー」「ディア・ハンター」など)。視点を変えるとヒロシマナガサキ被爆者、ミナマタの公害被害者で同じことを読んだり見たりしたものだった。フィクションだと、笠井潔「哲学者の密室」の最初の被害者。激しい心理的緊張ののちの弛緩、未感情、社会的な不適合などなど。この章(に限らず)は、これらの20世紀の悲惨と描いた書物と一緒に読む必要がある。
 さらに著者の囚人の分析と抑圧からの解放のプログラムは、ある種の人々には適応可能であって、それは抑うつ状態にある人。彼らも世界から分断されていて、未来に対する期待をもてず、現在を生きるのが難しい。自分が作り出した収容所の中にいるようなものだ。そういう人にとって「深き淵より」の章は啓示に満ちている。自分がそういう状態なので、いわば「慰め」を感じながらこの章を読めた。
(2011/01/28)

  
 自分が読んだのは1970年代の翻訳だが、1990年代か2000年最初のディケードの改訳では、本文の編集や写真の削除などがあったと聞いた。

  
 アラン・レネ監督の映画もあわせて。

 米国のユダヤ人団体の作成したドキュメンタリー。ナレーションがエリザベス・テイラーオーソン・ウェルズというう豪華キャスト。