odd_hatchの読書ノート

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高杉一郎「スターリン体験」(岩波現代文庫)

 著者は「極光のかげに」の著者で、シベリア抑留体験をもっている。いくつかの記述は「極光のかげに」と重複。
 たしかに、心理的な外傷をもっていて、それを心に秘めていることは苦しいことだ。我々だって、失恋・事故・親しいものの死などを経験したとき、しばらくはだまっているしかなく、そしていつか信頼できる誰かにすべてをぶちまけるということを行う。自分もそう。そういうぶちまけ(と聞き手の全面的な受け入れ)によって、外傷は癒えて、新しいことをやろうかという気持ちになれる。それを「浄化(カタルシス)」といい、著者は1990年に始まったロシアの「メモリアル」運動を紹介する。これはスターリン時代の国民および周辺諸国の人びとを抑留し、収容所に投獄し、処刑した記憶をぶちまける民衆(というか人民というか、なぜこの国の言葉には適したものはないのだ、つまりはpeopleだ)の運動。実際のところ、そのような経験に遭遇した人はほとんどが死亡しているために、生き残ったものが記録を掘り返し発表するという運動である。同時代のNHKのドキュメンタリーで紹介されていた。この結実が20年たってどうなったかは勉強不足で知らない。2010年にアンジェイ・ワイダが「カティンの森」を映画化するというのは、かの国や共産主義には「浄化」がまだまだ必要だということになるのだろう(ではヒロシマは、ナガサキは、ミナマタはどうなった? 追記:ここを書いたのは2011/2/16)。

 著者は1908年生まれ。1930年代初頭に大学に入り、エスペラント運動に参加する。当時はエスペラント運動の中に左翼運動もあって、ソ連共産党の動向も少しは耳にすることができた。スターリンは国内統治のうえで、ふたつのことを考えていて、ひとつはロシアの他民族をどのように統治するかということと、他民族の使う言語をどのようにするかということ。1920年代には模範的な地方自治の実現、多言語の許容とその文化の発展をうたっていたのであったが、1930年代になりそれを全面的に撤回(著者に言わせると「裏切り」)し、ロシア人による統治・ロシア語の強制を行ったのであった。その裏には、トロツキーの永続革命論に対するスターリンの一国社会主義を現実化することもあったのではないかしら。さて、エスペラントは世界共有言語(といっていいのかしら)であるので、一国社会主義ナショナリズムコミンテルンと対立するのであって、ザメンホフ教授がロシアで始めたのを受けて、ロシア・東欧で盛んであったのをスターリンは徹底的に弾圧したのであった。この書の中でもロシアのエスペランティストの悲惨な収容所や獄舎の体験、非道な死刑が紹介される。すなわちエスペラントを学び実行するということはそのままスターリンに敵視されることなのであった。ここでも「極光のかげに」を出版した後、この国のスターリン賛美者によって著者がつるしあげを食らうという体験さえする。もちろんスターリンの死、スターリン批判の前のできごと。
 ここで感動的なことがいくつか
トロツキーが市民権剥奪、国外追放ののち、ノルウェーにいたころ(ここでもほぼ監禁状態)、被告人不在でトロツキー裁判があり、死刑が宣告される。それに対しアメリカで国際調査委員会が組織された。委員長は教育学者ジョン・デューイ。彼はメキシコに移動し、当時のメキシコ大統領の受け入れ表明でこの国に移動していたトロツキーを自宅で証言させる。あわせてその関係者に対する証言をきく。約一ヶ月にわたるこの委員会によってソ連当局がトロツキーの罪科(国際的な反ソ連陰謀)がでっちあげであることを確認する。その経過におけるトロツキーおよびデゥーイの立派なこと。自分はトロツキーの思想にはほとんど共感を持たないし、彼の人格には付き合いきれないと思うところがある。にもかかわらず、モラルというかエチカに対する彼の態度は賞賛に値し、むしろ尊敬する。
・収容中にソ連の対日参戦の意図を検討している。もちろん捕虜の身として詳細情報は入手できないにしろ、自分の経験や収容所での情報から、スターリンポツダム会議の前から対日参戦を用意していた。それは、参戦にあたり「日露戦争の恥辱を晴らす機会である」旨の宣言があった。これは国際共産主義を放棄し、民族主義に乗り換えたことの証(というか国民の復讐感情を喚起するやり方は政治屋的である)。似た感想を戦後すぐの林達夫も書いていた(「共産主義的人間」)
ポツダム宣言にはこの国の軍人および民間人は、すぐに国にもどりその再建にあたることが明記されていた。しかし、ソ連は軍人捕虜をすぐさまシベリアの収容所に送り、労働(多くは鉄道建設)にあたらせた。著者は、スターリンがシベリア開拓の労働力として日本人捕虜を使うことを意図していたのではないかと考える(まあ、1930年代に数千万人を殺害・収容所送りにし、ドイツとの戦争で多大な被害を受けていた)。それはひどいことだ。いっぽう、この国は抑留軍人の帰還にあたり、日本が負担するのは海上輸送に限定されると主張することで帰還が遅れる原因となった(ソ連は全額日本負担と主張)。
・1950年ころの日本共産党書記長の徳田球一が「反動分子は返すな」とソ連に「要請」/「期待」すると発言したという問題があった。そのときに通訳を務めた元捕虜が政治問題に巻き込まれ、この国の生まれでありながらこの国の言葉が通じないというディスコミュニケーションに絶望して鉄道自殺するという事件があった。木下順二「蛙昇天」の元になった事件。この通訳は著者と面識はないが、同じシベリアの抑留経験をもっていたのだった。彼の遺稿には、収容所でインテリが堕落(作業サボ、不貞寝、寝小便、窃盗)しているのに憤慨し、文化講演会を企画する話が出ている。講演会のひとつにエスペラント勉強会があり、誰も来ないという不入りであった。その講師は詩人・石原吉郎の友人である鹿野という人物であった。彼らはそろって不遇であり、コミュニケーションできないことに絶望する気分をもっていた。彼らもまたスターリンの政治的・思想的な被害をこうむったものたちである。
トロツキー裁判の様子が描かれる。ソ連の被告不在の裁判に対抗するために、メキシコで開かれたもので、アメリカから裁判官が派遣され、トロツキーの隠れ家で行われた。このときの裁判長とトロツキーの姿が感動的なので、読んでほしい。濡れ衣で被告にされたとき、いかに自己弁護するかの素晴らしい例を見ることができる。のちのマッカーシズム時代の証言強制がアメリカで行われたことに愕然とすることにもなる。(ま、その一方で、トロツキーは隠れ家に秘密の通路を作って、不倫にいそしんでいたわけでもあるのだが。ここらの公私の使い分けをどうみるか。俺は、気にしない、だ。)
・以下は感動的とは逆。「極光のかげに」が出版されたあと、埴谷雄高は書評で、これは愛読し共感したが、次第に偽書ではないかと思いいたると書いた。理由は著者がシベリアでウクライナのドイツ人自治州出身のドイツ人にあうという記述があるから。「ウクライナのドイツ人自治州」というのがデマと埴谷は考えたらしい。翌月の同じ雑誌で著者は反論したが、埴谷は返事を書かない。これは埴谷の汚点だな。
 著者にとっての「浄化」は、帰国後しばらくしてから中野重治を訪ねること、そして彼にシベリア体験をぶちまけることだった。著者は改造社の編集者であったので、既知であったのだ。反論せずに聞いていた(これは重要)中野は最後に「やっぱり、スターリンは偉大な政治家だよ」といったという。そのあと、著者は「極光のかげに」を書いた。そのふたつが「浄化」であったのだが、それから40年を経てもなお、心の残る重苦しさを彼はスターリンに感じていたということになるわけか。

  

<参考エントリー:高杉一郎の翻訳>
2014/06/23 フィリパ・ピアス「トムは真夜中の庭で」(岩波少年文庫)
2016/09/27 マーク・トウェイン「トム・ソーヤーの冒険」(講談社文庫) 1875年