odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

大江健三郎「核の大火と「人間」の声」(岩波書店)

 1981年に書かれたり、講演した原稿を収録したエッセイ集。どの論文も、講演で読み上げるつもりで書いたので、平易な文体と論理で書かれているので、1980年代の作家の考えを鳥瞰するのに便利。ここに書かれたことは、その後のエッセイでも繰り返しているし、実作でも文学の理論を応用実践したものになっている。小説の仕組みが複雑になって、物語がすっきりと頭に入らないときには、ここに帰ってくるとよいだろう。

1 核の大火と「人間」の声 ・・・ 京都大学での講演。1)日常生活から世界の全体を構想するような文学を必要としている。アメリカには、ノーマン・メイラージョン・アーヴィングカート・ヴォネガットのような作家がいる、2)企業や国家の耳あたりの良い、しかし内的には矛盾した言葉をうのみにするような「一次元的人間@マルクーゼ」になることを拒否しよう、3)原爆を落とされる側にたって物事を考えよう。

2 核時代を生き延びる道を教えよ ・・・ 1)小説や芸術の役割についてのカート・ヴォネガット、ジョージ・スタイナー、中野重治の考えの紹介、2)反論理、非論理の言葉でわれわれに監視や核配備を強要することに対して論理的に対抗しなければならない、3)文化の全体が貧しいとき(それは文化を鑑賞、消費する側の問題)、個々の作品は貧しいものになる。

3 「優しさ」を不可能にするものと闘うために ・・・ 1)家庭や社会の人々を結びつけるつなぎ目(ジョイント)の役割を障碍者はもつ、2)そのような障碍者がどのように生きるかを構想することが必要、3)それを実現することが国家の上品さ(ディーセンシー)を表現することになる。

4 小説と現実をむすぶ ・・・ 文学理論のうち、動機付けmotivationとトリックスターを使って「芽むしり仔撃ち」と「芽むしり仔撃ち裁判」を比較する。このような文学理論は小説と現実を結びつけるときに有効な方法だし、現実をつくりかえるさまざまな活動にも有効になる。

5 ドストエフスキーから ・・・ まず読書について。苦労して読む(トラバーユ)ことが読書で重要。作家が書いた時と同じ年齢のときに作品を読むと理解が深まる。小説はイマジネーションにおいて男性からはどうしても到達できない女性を作り出す。あとはカーニバル、女性神、民衆的な基盤、肉体の危機の克服が精神の危機の克服につながるなどを「罪と罰」に見出したという話。

6 作家としてフォークナーを読む ・・・ 根源的で深い存在としての情熱的な女性像、それを引き出す無垢で善良な男性像。このような小説の仕組みをフォークナーに見出す。

7 子規・文学と生涯を読む ・・・ 子規の多面性。デモクラティックな相互教育を実行する子規、俳句を構造的に解析する子規、俳句を作るもののために辞書を編纂する子規、病を乗り越える具体的な方法を実践する子規、家族と教育と介護を考え実践する子規、など。子規もすごいが、このまとめ方もすごいなあ。

8 フィクションの悲しみ ・・・ 第1回日本記号論学会での記念講演。作家から見た記号論。主な論点は「小説の方法」にある。多義的な現実を一元的な言葉で描くと、多義性が失われ文学は貧困になりかねないが、記号論は一元的な言葉を多義的なフィクションに変える変換装置になるとのこと。ここでは「暗夜行路」「緑の家」で記号論的な読み取りをおこなう。「暗夜行路」で主人公は下痢止めを呑んで高熱を発したが、もし薬をのまないで下痢になったら、と笑いを取ったが、そのアイデアは「宙返り」で使用された。

9 核時代の日本人とアイデンティティー ・・・ 核兵器による被害を広範に経験したこの国は、核兵器を廃絶した世界を構想し、実現する役割の担える。そのときに戦争の加害・被害、周辺地域への暴力などから目を背けてはならない。

10 核状況のカナリア理論 ・・・ 作家の役割は世界を認識するモデルを提示すること、そして世界の危機や問題にセンシティブで最初に悲鳴や卒倒することでほかの人に危機の到来を告げること。そのような作家的、ないし小説的な想像力で、核兵器のことを考えねばならない。

講演草稿として書くあとがき ・・・ 1981-2年当時の状況のまとめと戦争放棄の理念が普及することを期待する。


 1980年前後というと、イラン革命、韓国大統領暗殺、ポーランドの連帯運動とその弾圧、アメリカの西欧諸国への核配備推進、ソ連アフガニスタン侵攻、やまないイスラエル周辺の戦闘など。この国はそれらに巻き込まれることなく、工業生産にまい進。アメリカ、イギリス、この国で保守政権が発足。
 9、10などでソ連脅威論とこの国の核配備推進論などがあったと説明されている。それが、2012年以降によくある言説にそっくり。国を別に変えただけで、中身がいっしょ。違うのは、核兵器の使用がでてこないところくらい。
 さて、そのような「現実派」の言説に対抗するところは、

「平和は辛いものであるが、これに耐えなければならない(渡辺一夫)」

「人間は滅びうるものだ。そうかもしれない。しかし抵抗しながら滅びようではないか?そしてもし虚無が我々のために保留されてあるとしても、それが正しいことであるというようなことにはならないようにしよう(セナンクール)」

「ごくわずかな愚かしさの発作のみでやすやすと世界の終わりを保証するような、地球の運命を、単なる政治家たちの手にゆだねるなどしたでしょうか(ヴォネガット)」

「人類全体が、もし生き続けるとするならば、それは、単に人類が生まれたからという理由でそうなるのではなく、人類がその生命を存在せしめる決意をもったからこそ、存続しうるということになろう(サルトル)」

などの言葉。なにしろ、その弱弱しさには暗澹たる思いがするし、威勢の良い「現実派」を説得しうるとは思えないようなペシミスティックな感情を持つことになる。まあ、とはいうものの、画一化や監視を強め、人々に暴力をふるうことを進める力には抵抗の意思を示さないとなあ。希望がないところで、希望を見出すようにして(ここはフランケル「夜と霧」の囚人たちを想起しながら、心を奮い立たせるようにして考える)。
 とはいえ、作家的想像力で書こうとするいくつかヴィジョンやアイデアにそのまま賛同するということはなかった。繰り返される「核時代」であり、「人間」であり、「アイデンティティ」など。