odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

ジョン・ディクスン・カー「三つの棺」(ハヤカワポケットミステリ)-1

 専門のわからないグリモー教授は無給で博物館などの仕事をしていて、とくに吸血鬼伝説に造詣が深い。愛好家の友人らを酒場でその話をしていると、ピエール・フレイなる奇術師がおかしな話で割り込む。それを聞くとグリモー教授は顔色を変え、そこにいた新聞記者マンガンに訪ねてくると脅かす者がいると語り、用心のために大きな画を買ったと意味不明の言葉をもらす。その夜、雪がふりだし、グリモー邸の庭に積もる。書斎にこもったグリモー教授のもとを仮面をつけた大男が訪問し、そのまま教授の書斎に入った。しばらくした10時10分に銃声。内から施錠されたドアを破ると、胸を銃弾で撃たれた瀕死のグリモー教授が倒れていた。緊急搬送するさいにも、おかしな言葉をつぶやく。

 あとでわかったのだが、ピエール・フレイが路上で射殺されているのが発見された。グリモー邸から歩いて数分のカリオストロ街でのこと。時刻は10時25分。街灯で照らされた路上にひとりでいたフレイに「二発目はおまえにだ」という声とともに銃声を聞いている証人がいる。困ったことに、路上および周辺の建物の影には誰もいないうえ、雪には足跡もない。銃弾は至近距離から発射されていて、近くに落ちていた拳銃はグリモー教授を射殺したもの(搬送の数時間後に死亡が確認)と同一であることがわかった。
 カーの不可能犯罪のなかでもとびきりの不可解な状況。なにしろ、第1のグリモー教授の事件は書斎が密室だったうえに、グリモー邸の庭に降り積もった雪には訪問者以外の足跡がない。第2の事件は、人の注目を浴びている状況にもかかわらず犯人の目撃と痕跡が残っていない。犯人は同じ拳銃をもって、二つの事件を起こした後、こつ然と消失したのだとしか思えない。それこそ吸血鬼が現代によみがえった?(という推断は登場人物の誰もしていないのだが)
 グリモー教授はフランス人と思われていたが、実はハンガリー育ちのマジャール人であることが知れる。しかも、生きながら埋葬され、必死の思いで脱出したという3兄弟の一人であった。他の兄弟も同じ目にあったのだが、グリモー教授と同様に脱出できたのだが、教授は彼らを見捨て、ついでに国も捨てた。なので、犯人はこの兄弟の復讐であり、そのひとりは奇術師フレイであることもわかり、正体不明の3番目の兄弟ではないかとハドリー警視たちは推測する。
 書かれたのは1935年。まあロシア革命の勃発、そしてスターリンの粛清でハンガリー人は絶えず国外に亡命していた。ドイツやフランスにはそのような人々がたくさんいたのだろう。この時期だと排外主義の運動もあって、肩身を狭く過ごしていたのではないか、と危惧する。といいたいところだが、グリモー兄弟の亡命の理由はもっと陰惨なもの。裏返された「モンテ・クリスト伯」みたいな愛憎と冒険の劇があったと紙面から推測する。
 興味深いところは多々あるのだが、なにしろ記述がとてもたんたんとしていて、第1の事件は開巻30ページまでに詳述されるが、その後100ページまで尋問が続く(ここでグリモー邸には教授の娘、秘書、家政婦の3人の女性がいて、それぞれ角付き合っているというなんとも厄介な状況がわかる)。第2の事件のあとも、腰を据えたフェル博士のところに関係者がやってきては長広舌をふるうという次第。なんとものんびりした描写で、キャラクターの性格も弱いとあって、ときにあくびをかみ殺すしだいになった、と告白せねばなるまい。
 とはいえ、フェル博士の「さてみなさん(とはいっていないが)」から始まる謎解きはなんとも錯綜した複雑なもの。実のところ、第1の事件の密室のトリックはツマにしかおもえないほど、プロットは凝っている。要領のえないさまざまな断片情報が、博士の説明にぴたぴたと収まるのを読むのは快感。一世一代の密室トリックよりもこの錯綜したプロットのほうに驚嘆するべき(ここまで複雑なのはそうだな、ノックス「サイロの死体」くらいか)。それを楽しむにはポケミスの翻訳はうまくないので、改訳することを望む(と思っていたら、新訳が出ていました)。
 高名な密室講義は次のエントリーで。
(続く)

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