吉村 公三郎(1911年9月9日 - 2000年11月7日)は昭和の初期に映画畑に入り、島津保次郎の助監督としてキャリアを積んで、23歳で監督デビュー。戦争になると徴兵されて、南方戦線に送られる。幸い、兵士ではなく情報部の後方勤務だった。慰問や映画の仕事をしていたので、タイや上海にあったアメリカ映画(そのころは輸入禁止で国内では上映できなかった)をみている。ウィリアム・ワイラーの「嵐が丘」をみてパンフォーカスや「縦の構図」などを発見したそうな。敗戦後に監督業に戻ったが、大資本の製作方針に合わないので、新藤兼人らと映画制作会社「近代映画協会」を設立した。戦後のさまざまな映画プロダクションのはしりと自負している。50代に大病をしてから映画製作の現場から離れ、このような文筆業の仕事が多くなったらしい。と、別の資料などを参考に生涯を概説。あいにく自分はこの人の監督した映画を一本も見ていないのだ。知っていたのも原節子主演の「安城家の舞踏会」くらい。もうしわけない。
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この本は、彼のキャリアを基にした映画演出の基本を述べたもの。
・シナリオ ・・・ メディアによってシナリオの書き方は異なるよ。歌舞伎、無声映画、トーキーでは違うよ。セリフは大事だよ。
・「枠」 ・・・ 劇を示すには、なにをどのように撮るかが大事だよ。基本のパターンがあるから、まずそれを押さえて(とくにクローズアップに注意)、あとは工夫を追加。
・モンタージュ ・・・ 戦前のソ連映画の影響か、モンタージュの思想は侃侃諤諤の議論をしたなあ。思想はともかく、技法は基本中の基本。あと劇の内容や主題にあわせて適宜使ってね。
・風俗(時代考証) ・・・ 師匠の島津保次郎には風俗考証の重要さを教えられた。街並みや家庭内の道具、起居動作は時代と場所で千差万別だから、神経細やかに調べてね。でもあんまりとらわれると、製作費とスケジュールが狂うんだよなあ。
・演技 ・・・ 柄とカンと経験が上手な俳優の備えたもの。自意識過剰(スポットが自分に常にあてられているとか、正面からの視線ばかり気にするとか)をどうやってなくしてやるかは監督や演出家の腕。パントマイムがうまくいかないときには、セリフを作ってそれを語りながら演技させ、最後にセリフをなくすとうまくいくよ。
について、説明。ほかにも撮影、照明、色彩、編集、音楽など話したいことはたくさんあるし、ドキュメンタリーやアニメ、コメディにも作法があるから書きたかったなあ、ということです。別の本で書かれているのかもしれない。
自分は映画は好きだが、役者の演技の巧拙や編集のうまさ・リズムなどの技法はさっぱりわからない。なので、ここに書かれた「映像の演出」の正否、妥当性はわからないし、これを読んだことで映画を見るときの技術的な視点がはぐくまれたとも思えない。たぶん製作者を育成するためのプログラムはあって、技術は教科書になっているのだろう。でも、そのような「学校」に行かない鑑賞者にはよくわからないねえ。もうひとつは映画の編集はうまいのだろうが、書物の編集は成れていないのか、散漫になってしまってね。
というわけで、むしろ戦前から敗戦後しばらくまでの、著者の経験した映画製作の裏話のほうがおもしろかった。島津保次郎の暴君振りと著者への期待と教育(ただひとり食事に誘ったとのこと。でもそれは大阪育ちの著者に江戸の風俗を教えるためのOJTだったそうな)。現場あがりのためインテリにコンプレックスを持っていたところ。戦中にワイラーの映画に感激し、戦後来日した監督と交友するところ。フランスの俳優ルイ・ジュヴェへの偏愛。自分が育てた金田隆と津島恵子の自慢。こういう繰り言というか昔話の語り口がうまい。1979年初出で、当時68歳となると「最後の作品」みたいな意識があったのかな(89歳没の長生きではあった)。