odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

ラフカディオ・ハーン「怪談・奇談」(講談社学術文庫)-1 日本を舞台にしたゴシックロマンス

  ラフカディオ・ハーンは1890年に来日。英語教師をしながら、日本文化を紹介する著作を多数執筆。その中には、日本の民話や怪談などを採集し、英語に書き換えたものがある。本書は、その一部を翻訳したもの。
 ★印をつけたのは、1965年公開の小林正樹監督の映画「怪談」に使われたもの。武満徹の音楽が良い。

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耳なし芳一 ・・・ サマリー不要の名作。怪異を描いても理が先にある。たとえば耳なしの由来。あるいは初めて御所を訪れる描写に、真実の手掛かりが隠されているところ。和尚による悪霊退散の魔術や、小姓たちへの手配。日本を舞台にすることを除くと、純然たるゴシック・ロマンス。

おしどり ・・・ 禁忌であるおしどりを狩った武士の夢に、ころされたおしどりの妻・雌が現れる。妻・雌の弾劾もまた、情より理の勝る弁論。

お貞の話 ・・・ 死ぬことを悟った15歳のお貞はいいなずけの長尾に、必ず今生で再会するといい残す。それから十余年。独り者になった長尾は旅に出る。ポー「モレラ」の再話。こちらはハッピーエンド。

乳母桜 ・・・ 乳母桜と名付けられた木の由来。

策略 ・・・ 打ち首になる男は主人に恨みと復讐を誓う。主人は落ち着いて、ある提案をする。家来は怨念を恐れたが、主人は動じない。これも情より理の勝る話。

鏡と鐘と ・・・ 鐘を作るために鏡を供出したが惜しんだために鏡は炉で解けない。その噂が広まると、鏡の持ち主は恥じて死んだ。鐘の行く末は、ハウプトマン「沈鐘」と比べよう。後半は「なぞらえる」行為にみられる類推思考の解説。

食人鬼(じきにんき) ・・・ 旅の途中、夢窓禅師は村の法事のある家で休む。その村では死者が出ると、一夜村人は全員村の外に出ないといけない。夢窓禅師は勤めを果たすことにして、怪異を目の当たりにする。そのあと、彼の宿泊を断った、村人の誰一人知らない庵室を訪れる。ここでも怪異の主は理性の人。自分に起きたことを客観的に認識し、解決策を論理的に導く。

貉 ・・・ 堀端に俯いている女に声をかける。スマートな落ちのあるショートショート

轆轤首(ろくろくび) ・・・ 磯貝平太左衛門武連、思うところあって雲水の身になり、説法の旅に出る。あるとき、野宿するところを樵人(きこり)に宿を進められる。轆轤首の由来を古書の知識で解き、首実験を古書に照らし合わせる。胴体を動かすと首はつながらないという退治の方法も理にかなう。悪鬼が実在することを除くと、論理と合理が貫徹。

葬られた秘密 ・・・ 若くして亡くなったお園の幽霊が毎晩出る。供養をしたが一向に消えない。和尚がお園と話をすることにする。ここでも現象と原因が明快に説明される。

★雪女 ・・・ 樵人が吹雪にあって宿を借りる。そこに雪女が現れ、巳之吉だけを見逃すことにする。契約を破ることで巳之吉の幸福が破綻。情ではなく、契約が優先する社会関係。

青柳の話 ・・・ 若い武者の友忠が吹雪の夜、老夫婦に宿を借りる。その美しい娘に一目ぼれし、無理に妻にめとる。紆余曲折ののち、ある晩妻は突然苦しみだし、最後の言葉を告げる。自然の精霊が人間に温情を示すも、この世でははかない運命にある。

十六桜 ・・・ 十六桜が陰暦正月十六日にだけ咲く理由。命を樹に譲ることを「身代わりに立つ」という。

安藝之介の夢 ・・・ 若者が酒に飽きて夢を見るに、常世の国王になり24年の楽しい暮らしを過ごす。目を覚ますと、蟻の塚が枕にあたりにあった。荘子の「胡蝶の夢」の変奏。昆虫が主人公になるのが珍しい(とはいえ、蝶はあの世の使いだった)。

宿世(すくせ)の恋 ・・・ 当時評判の円朝による怪談「牡丹灯篭」を英訳する。翻訳が終わると、日本人の友人とお露、新三郎の墓を見にいく。新三郎は実に臆病で情けない男と断じる。

因果話 ・・・ 文政十年(1822年)のこと、ある大名の奥方が死の床に伏していた。最後の願いと18歳の雪子に桜の花を見せておくれと頼む。妄執と若さへの嫉妬。

天狗の話 ・・・ 童にとらえられた鳶を助けた老僧、山中で天狗にあう。願いことをかなえようというので、釈迦の説法をじかに聞きたいと乞う。中世では魔を天狗と呼んでいた(「中世なぞなぞ集」岩波文庫。なので例の長鼻、高下駄、雲水の服装ではない)。

★和解 ・・・ 遠い任地に向かう侍、妻と離縁したが、忘れられない。幾星霜ののち都に戻った侍は妻を訪ねると、一人で待っていた。(映画のタイトルは「黒髪」)。

普賢菩薩の伝説 ・・・ 徳の高い上人がお告げで遊女の家に行けと言われる。そこでは、遊女が舞い踊っていたが上人には普賢菩薩の化身に見えた。最下層の被差別者に聖性を見るという仕掛け。

死骸にまたがった男 ・・・ 怨念を残して死んだ妻、夫を呪殺するという。夫は陰陽師に頼み、死体に一晩またがれと命ず。教訓も男の断罪もないことに、作者(ハーン)は不満。

菊花の約(ちぎり) ・・・ 戦後の世、殿を戒めるために出かけた侍は9月9日の菊の日に帰ると約す。その日、待ちわびた武士のもとに、侍が深夜戸を叩く。太宰治走れメロス」と類似。

破られた約束 ・・・ 先に死にいく妻は夫に再婚するなと頼み、家の敷地内に墓を作る。一年後再婚した夫の新妻に亡霊が現れる。作者は、先妻の妄執は夫に向けられるべきと憤る。

 

 荒俣宏「本朝幻想文学縁起」(集英社文庫)で指摘されているように、われわれは日本の怪談、幻想文学に疎いのであって、ことに江戸以前のものはほとんど読まれない。岡本綺堂「妖術伝奇集」(学研M文庫)収録の大正から昭和の時代の怪談を読んでも、石川淳「新釈雨月物語」を読んでも、ピンとこない(あるいは新発見のように読む)のはだれでもが知っていた日本の妖怪、怪異などをほとんど知らないため。小坂部姫も玉藻の前も、すでに周知ではない。
 例外的に知っている話というと、つまりは芥川龍之介の中世譚と、この小泉八雲の「怪談」。これらは子供雑誌によく出てきたので、幼少期から知っていた。あるいはTVや映画で何度も制作された。あいにく、思春期ころから離れて今にいたり、読み直す。
 以前は、日本の怪異として読んだのだが(それゆえに風俗、習慣が読者に近すぎて興味を削いだ。なにしろ西洋の文学に魅了されていたので)、今回はウォルポール「オトラントの城」シェリー「フランケンシュタイン」などのゴシックロマンスの名作を読むような気分で読むことになった。というのも、もとは日本の物語、民話、故事であっても、ラフカディオ・ハーンという非ネイティブの意識を経由し、英語で書かれることによって、それらの日本の文化や習俗が客観的・批判的に書かれているので。
 そうすると、ハーン=八雲の筆による怪談は、上のサマリーに書いたように、理の勝った物語になる。因果関係が強調され、どの事件・出来事が何に由来するのか、怪異の結果どうなったかがはっきり明示される(原作がそうでないときは作者が補足する)。ときには探偵小説のように、伏線が回収されて、謎が解き明かされる結末になるものもある。怪異を自然現象や天の意思などと説明するのではなく、理性と論理で説明しようとする。ここはとても「西洋的」なもの。
 理性と論理の強調は、登場人物の心理にもおよび、彼らが行動し会話するときの理由や動機も明快に書かれる。人物は動機と意図をもって合理的に行動している。これも「西洋的」な書き方。
 自分は他人の感情を読むのが苦手だし、感情をもとにした会話や行動がフィクションに出てくるのも苦手。アクション映画で、危機に向かう主人公を「私はどうなる?ここで待てというのか?お前がいなくなったら俺はどうする?」とか引き留めてもめるシーンは大嫌い。日本の怪談でも、たとえば「牡丹灯籠」でお露と新三郎の濡れ場を読んだり、聞いたりするのは退屈。あるいは、幽霊が復讐の相手に繰り言をながながとしゃべるのもダメ。そうすると、ハーン=八雲版のように、そのような濡れ場がすっぱりと省略され、アクションだけが起こる書き方は好ましい。
 そうすると、ハーン=八雲の小説(翻案?)は日本の文学というより、イギリスの幻想文学というのがふさわしい。

 

    

 2019/09/13 ラフカディオ・ハーン「怪談・奇談」(講談社学術文庫)-2 1900年に続く

 

 小林正樹監督の映画「怪談」 

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〈追記2024.1.16〉
 都筑道夫が「都筑道夫の読(ドク)ホリデー 上巻」(フリースタイル)で、講談社学術文庫版の小泉八雲「怪談・奇談」の翻訳に注文を付けていた(「明るい闇」1990.10)。背景情報を追加すると、当時、小泉八雲「怪談・奇談」で手軽に読めるのは本書と岩波文庫平井呈一訳2冊くらいだった。都筑は平井訳にも「ときどき首をかしげる」という。「読(ドク)ホリデー」の他でも平井呈一訳に不満を表明している。
講談社学術文庫版では編集の平川祐弘は以下の編集方針でいた。

今回の新訳に際し私はその原拠(げんきょ)に出てくる言いまわしや表現をなるべく活用するようつとめたことも申し添える(P4)

文庫の終わりにはハーンが英訳した物語のもとになった日本語文献の該当部分が翻刻されている。それとハーンの英文を比較して上記のようにするというのだ。
これを都筑道夫は批判する。八雲は小説を書いた(文庫の解説などをみると、八雲は家人に同じ話を何度も話すことを要求し、原拠から離れて家人が独自のいいかたにしたものを英訳した)。なので八雲の文章に忠実であるべき。八雲の「間違いはそのまま翻訳して、訳注かなにかで、八雲の誤解を、読者に知らせればいい」「勝手に訂正したのでは、翻訳者のほうが、作者より上ということになる」「翻訳者が意見をのべられるのは、注釈あとがき解説という場所であって、訳文という場所ではない」(P119)
都筑道夫自身はミステリーやホラーの翻訳を行っていて、翻訳者は「演出家、俳優として、外国語の小説を、日本語で語って見せる(P136)」べきであるという。その視点からすると、「翻訳者が、原典を勝手にいじりまわす例が目につく(P120)」。たとえば、訳注を本文に組み込んでリズムを悪くするとか、語感の悪い言葉を使って意味が取れないようになるとか。