odd_hatchの読書ノート

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アナトール・フランス「神々は渇く」(岩波文庫) フランス革命時に観念の怪物に取り憑かれて怪物に変身した人間の悲劇。

 神々は何に乾いているのか。人間の血、とりわけ「革命」に関与した人たち(賛成、反対、協賛、拒否いずれにかかわらず)のそれ。「革命」の熱狂はすさまじいのであるが、そのあとに興奮を冷ますための人身御供を要求するのであって、フランスで起きたものに限定されるわけではなく、ほとんどすべての革命で、「革命」は人間の血を望み、実際に大量の血が流れた(たとえば山口昌男は「歴史・祝祭・神話」トロツキーを例にして指摘している)。

フランス革命の動乱にまきこまれた純心な若者が断罪する側からされる側へと転じて死んでゆく悲劇を描いた歴史小説.人間は徳の名において正義を行使するには余りにも不完全だから人生の掟は寛容と仁慈でなければならない,として狂信を排した作者の人間観が克明な描写と迫力あるプロットによって見事に形象化されている.正義感と愛国心に燃え、革命政府指導者のマラーやロベスピエールを崇敬する若き画家エヴァリスト・ガムラン。彼は革命裁判所の陪審員に任命されると、救国を叫ぶ同役とともに反革命、陰謀容疑者らを次々と断頭台へ送り込む……。 」
岩波書店

 時代は1793年から94年にかけてのロペスピエールの恐怖政治時代。周辺各国からの介入に対する防衛戦争、政権の獲得を狙う革命政党や王党派の暗躍。それらに対抗する密告と革命裁判の実施。宗教の否定(ルソーによる自然の「至高の存在」を神の地位に置くという政策が採られようとしていた)もあって聖職者が裁判にあった。売笑婦も革命の理念に合わないということで大規模に裁判にあった(矯正施設という収容所も作られた)。こんな混乱の時代。人々は革命に飽き、生活の安定を望む。
 エヴァリスト・ガムランは無名の画家。不遇なためか革命の理念に共感している直情的なまたは影響されやすい青年、彼はある貴族夫人の推挙で革命裁判所の判事に任命される。最初は人権の実現と憐憫の感情によって公平な裁判を実施していたが、ロペスピエールの演説に影響されて厳格な処罰を下すようになる。彼が死刑判決を出したのは、妹の夫、隣家の元貴族、老人を助けた17歳の売笑婦、カソリック修道院の神父などなど。つまりは革命という「観念」に取り付かれて怪物に変身した人間の悲劇、というわけだ。革命というのは何かの現象であるのではなくて、「観念」として存在し、現実との比較によって修正されるところが、現実のほうを否定して「観念」を実現することに取り付かれたということになる。ガムランのような「観念」の怪物はフランス革命の時だけに存在するわけではなくて、その後の革命なるもので常に存在した。革命が成就しなくても革命党を名乗る集団も多くは「観念」の怪物を有していただろう。そのような怪物たちが政権をとるとどのようになるか、まあわれわれは多くの歴史で知っている(別に左翼の革命派だけでなく、民族派の右派にも怪物は生まれる)。作品が書かれたのは1911年で、ロシア革命はまだ成功していないが、おおむねこの小説と同じような推移になった。
 あとこのような「観念」の怪物は、陰謀論に侵されやすい。観念と現実の齟齬が生じたときに、現実の中に陰謀があるとみなすのだ(「陰謀」もまた多くは観念の産物だ)。自分の観念が実現しないのは陰謀をたくらむものが足を引っ張っているからだ。だから彼らを殲滅しなければならない。そこにおいて陰謀にすこしでも加担しているのであれば(観念の怪物がそうみなしたのであれば)、彼らは死罪に値する。陰謀にかかわった(とみなされた)ものを死罪にすることは、証拠がなかろうと、人道に反していようと、観念の実現のために崇高な義務となる、というわけ。現実の理念よりも観念の実現のほうが優先順位が高いから。「革命」の側にある人は、陰謀をたくらむ人をおおむね貧者、弱者および敵対する集団の中に見出す。観念の怪物は他者とのコミュニケーションを拒否する。
 これだけだと小説ではなくて告発の書になるのだが(作者はそんな意図はないという)、周辺に魅力的な人物を配置することによってストーリーの面白さを堪能できる。元貴族で元収税人、いまは紙のマリオネットをつくっている無神論者の老人ブロト氏(たぶんルソー以前の民権主義者の影響を受けている。役回りは「悪霊」のスチェパン氏に似ている)。カプチン会士ロングマール神父(二人の問答がフランス革命の理念を理解する手助けになる)。ガムランの恋人エロディ(ガムランに捨てられた後、別の男といっしょになる)。可憐な娼婦アテナイス。こういう人々が魅力的で、リアルに書かれている。これらの人々の交友が人間的で面白しい。それはガムランの所属する裁判所と処刑の非人道さとの落差をおおきくしている。
 直前に堀田義衛「ミシェル城館の人」を読んでいて、こちらは16世紀の宗教戦争の時代。聖バソロミューの虐殺でプロテスタントが虐殺された。その200年後にはこのフランス革命が起こり、この小説のような事態が起きている。歴史は繰り返すという安直な感想と、フランスの人というのはいかに熱狂に影響されやすいのかその行動はどこまで苛烈に(しかも同国人に対して)なれるのかという差別的な感想。翻って、この国はどうかしら。われわれはこの小説のできごとや「観念」の怪物を笑うことができるか。少なくとも、宗教戦争のように兄弟姉妹が意見を異にして、密告しあい殺戮しあうという経験はしていない。それは僥倖であり、かつわれわれの思考を不徹底なものにしているのかもしれない。
 まず、フランス革命を舞台にしているということでディケンズ二都物語」、バロネス・オルツィ「紅はこべ」が関連書籍にあげられる。「観念」の怪物という視点からは、ドスト氏「地下生活者の手記」「悪霊」、ロープシン「蒼ざめた馬」、高橋和巳「日本の悪霊」、笠井潔「テロルの現象学」が参考になる。山口昌男「歴史・祝祭・神話」(中公文庫)ロシア革命スケープゴートになったトロツキーを紹介。ロペスピエールのジャコバン派の恐怖政治を支える根拠がルソー「社会契約論」にあるので、これも必読(人民が裁判権立法権を国家に譲渡したら、国民の総意を代表する国家はなにをやってもよいという主張。ルソーは国家に抵抗する権利を認めていたかしら?)。16世紀のフランス宗教戦争の様子は堀田善衛「ミシェル城館の人」「ラ・ロシュフーコー公爵傳説」で補完しておくといいい。あとハンナ・アーレント「革命について」も重要。