著者の小説の舞台は都会か四国の山の村がほとんどだが、めずらしくソ連領に近い北海道の島(ほかにあるのは「幸福な若いギリアク人」くらいか)。この島も荒海に囲まれて、周囲とは隔絶状態にあるというのは同じだし、古い因習と長老による集団統治、村の中の差別構造、余所者の冷遇と無視なども同様。著者としては、普段扱いなれているところとはべつの場所で、自分の主題を展開したいとして構想したのかもしれない。ここでは、状況の説明に多くが費やされて、成功したとはいいがたい。
まずはこの島から。江戸時代に武士階級が入植し、元からいるアイヌを使ってニシン漁に取り組む。毎年群れを成してくるニシンで成功し、村の権力と階級構造がつくられる。戦前までは栄に栄えたが、戦後は不漁が続く。村の資産は枯渇し、遠洋漁業に切り替えろと道庁他の指導があるが、村の権力者である鶴屋老人が頑として応じない。自分の資産を村人に配ることで、ニシン漁にこだわり続け、昔からの網元である長老衆も従う。しかし、鶴屋老人のために出稼ぎにも行けない青年会は反旗を翻そうとする。鶴屋老人の破産で資産が枯渇する前に、協同組合をつくり遠洋漁業の仕組みをつくろうというのだ。そこで青年会は村の「荒若」を取り込もうとする。荒若はその年のニシン漁の豊漁を願って、村の聖なる力を一身にあつめた選ばれた若者。彼は心身を正常に保ち(童貞を維持することが必須条件)、しきたりを順行することを求められるが、それ以外では村人に厚遇される(過去では豊漁の祭りの時に殺されるとかいう風習もあったとか。ここはフレイザー「金枝篇」にでてくる森の王にそっくり)。彼の宗教的権威を利用して、鶴屋老人の権力を覆そうとする。今年の漁の開始を決める集会で、青年会は鶴屋老人と対決することにしたが、老人は先回りして荒若が女と寝たという証言を引き出す。荒若の不摂生が不漁の原因と思い込んだ村人によって荒若は山狩りにあい、余所者である医師の家に逃げ込む。鶴屋老人、村人、青年会に裏切られた荒若は彼らへの復讐を誓う。
というストーリーで、このようにまとめると冒険アクション小説のようだな。でも、中身のほとんどは村の仕組みの説明、鶴屋・荒若・青年会のリーダーの内面描写、余所者たちの内心吐露。1959年当時の社会問題を読むのはなかなか大変でした。荒若島はアイヌの島とされ、道内アイヌと荒若アイヌで抗争があったということも示唆されるが、民族自立や差別の問題には踏み込まない。1959年初出で、23歳の若者が扱うには手ごわい問題であったのかも(同時代の武田泰淳「森と湖の祭り」1958年もそういうもどかしさがあった)。
村の仕組みや葛藤の関係が図式的になったのが、この小説の貧しさの原因か。長年の不作による村の疲弊と不満の噴出、老人による集団合議による政治(他の人を排除)に対する若者のアソシエーションの対立、医師・教師・巡査などの余所者排除と差別、荒若という聖と賤が表裏一体になった宗教的存在。没落する村の外にある巨大な資本や国家の暗躍。精密にえがくほどに、物語のダイナミクスが消えて、通俗冒険小説みたいになってしまった。主人公らの葛藤の表面的。頑張れば、国家とか政治システムとか、民俗学などの考察ができるが、そこまでの手間をかけるほどのものではなかった。
まあ、久しぶりに読むことで、このストーリーはどこかで読んだことがあるなと思った。なるほど疲弊して放棄寸前の村で再生事業に取り組み失敗するというのは「万延元年のフットボール」や「懐かしい時への手紙」、「宙返り」。村で排除された若者が外に出ようとするのは、「遅れてきた青年」「個人的な体験」の主人公、「同時代ゲーム」の語り手に共通(ちなみに荒若の家族は、前年に死んだ祖父と母、出稼ぎに出て行方不明の兄だけで、父はずっと前から不在というのも)。そういう「懐かしい時(今回の再読は出版順をさかのぼるように読んでいる)」を過ごした。
あ、とても否定的な言葉を連ねてしまったが、それは著者ののちの長編と比較してのことだから。同じ年齢の別の作家の小説を思い起こすと、これほどの充実さを示したものは(まず)ない。そこんとこよろしく。