昭和恐慌のうち、1930年に実施された金解禁に焦点をあてる。昭和恐慌の原因を探ると、それこそ日露戦争くらいまでさかのぼることになるのだが、そこまではみない。またここでは1923年の関東大震災および震災手形、あるいは蔵相の失言から発した1927年の取り付け騒ぎなども簡単に触れるだけ。1920年以降の日本経済のあり方は別の本を参照しておこう。(高橋亀吉/森垣淑「昭和金融恐慌史」講談社学術文庫など)
すごく簡略にまとめると、第1次世界大戦のどさくさに紛れて、一時的な好況があったのだが、放漫経営による不良債権が企業や銀行にたまっていたし、国内の資本蓄積率が低く景気の変動に左右されやすかった。物価は長期的な下落傾向(デフレ)で、失業率が増加。企業は設備投資などを行えず、生産性は向上しない。そのうえ上記のように自然災害があり、豊作と凶作がくりかえされて、農村は窮乏にあえぐ。アジアへの侵略的な拡大政策は軍事費支出を増やして公共投融資にまわらず、生産性の向上が達成されない。いくつかの失政もあって、長期的な不況がこの国にあった。政党政治によって成立した民政党政権はこの事態にたいし、緊縮財政・デフレ・経済収縮でもって答えようとしていた。これは古典派経済学の典型的な処方箋。その政策の中に、金解禁があった。貨幣を金と交換するすることができるようにし、それで貨幣の信用を保ち、物価の安定を図るというものだった。
金本位制は大戦中に停止されていたが、戦後は欧米各国が再開していた。それに呼応して、世界の経済政策に関与したい(この国の政治経済政策が支持されたい)という希望も込められていた。しかし、金本位制は実のところ、イギリス・ポンドが下支えしているから成立していて、戦後イギリスの金融力が低下したために、金本位制は次第に廃止されるようになった。この国の経済指導者はそのような情勢の変化を読めず、しかも古典派経済学に依拠していたので、金解禁は1930年1月に実施される。当時の対ドルレートは期待される交換レートよりも円高にあった。金解禁後は円安に転じるとみて、解禁前にドル買いが起こり、解禁後にドル売りが行われる。結果、この国が用意した外貨準備金では円高や円安でほとんど海外に流出してしまう。その結果、デフレがいっそう進行。企業と零細農家の資金は枯渇。生産性の低下と失業。輸出入の減少。経済の収縮。その結果、自作・小作農、工場労働者、都市中間層などがいっせいに没落(まあ失業で職を失う。職にとどまれても賃金が低下。貯金を使い果たし、消費に回す金がなく、食費にも困るようになる)。小作争議、労働争議が発生して、社会不安が高まる。
とりわけ農村の窮乏がひどかったので、多くの人々が政党政治と自由主義経済資本主義に失望する。そのときの不満の受け皿になったのが、農本主義的共同体主義(これがファシズムの温床になるわけだ)と対外拡張政策(周辺に植民地を建設して失業者を移住させ生産活動をやらせようという政策。そこに住んでいる人のことは考慮しない)。あるいは共産主義(当時のソ連は見かけ上経済不安がなかったからね。それにマルクス経済学者は世界不況を予言し的中させたので信頼された)。本書では、これらの国家主義や共産主義に知識人や一般人が傾斜していく様子を描く。
金解禁はそれを進めた濱口首相が退陣。犬養内閣になり高橋是清蔵相によって禁止される。そのあと、この二人によって積極財政(公債の発行、公共事業投資)とリフレ政策が行われる。その成果はでたのだが、1931年の満州事変によって軍事費の拡大によって民間までは広がらなかった。
本書の記述で興味深いのは、金解禁政策を国内だけでみるのではなく、同時代のほかの政策と対比するところ。1929年からの世界不況は、ほぼ全世界に波及した。そのときに、積極財政とリフレ政策はアメリカ、ドイツと日本でも行われた。では、後者の二国がなぜファッショになったのかと疑問を呈する。著者の答えは、公共事業投資がドイツと日本では上からの押しつけで労働者の民主化がなかったことにあるという。アメリカのニュー・デュールでは、民間が事業を推進することで民主化や民衆参加が図られた。それは生産性の差に表れたし、後者が赤字財政の負担に耐えかねて、戦時統制経済に移行しなければならなくなった(戦争が不可避になる)ところにも表れた。政策が似ていても、その内容まで掘り下げると差異がみられる。ファッショが台頭し政権を獲得するまでの経過や理由を分析するときに、この点はあまり気が付かなったので、参考になった。
記述が金解禁前後に集中しているので、全貌をつかむには不足。ほかの本で補完することが必要。また当時のマルクス経済学者やリベラル経済学者の金解禁に関する議論は初出の1970年代では重要だったかもしれないが、21世紀には不要。