odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

山中恒「ボクラ小国民」(講談社文庫) 国家総力戦では監視と暴力が日常茶飯事になり、隠蔽される。未成年が無給労働で収奪される。

 1938年(昭和13年)第1次近衛内閣によって国家総動員法が制定された。これによって、総力戦遂行のため国家のすべての人的・物的資源を政府が統制運用できるようになった。経済が国家統制になり(資源分配、生産計画、商品分配などが市場を経由しないようになる)、政党が解散され大政翼賛会に統合され選挙が監視されるようになり、作家や音楽家も組織化された。科学の総動員は廣重徹「科学の社会史」に詳しく、ここでは初等教育の総動員体制を児童の立場からみていく。
 もとは雑誌「辺境」に連載され、5巻の分厚いものにまとまった。そのうちの第1巻が文庫化されたのがこれ。発行日が1989年8月15日であるのは、意図的だろう。そのあと残りの4巻が出るかと思っていたが、でないまま現在に至る。

 初等教育も総動員法ができてから、いろいろ改変されたので、この一冊では十分ではない。焦点は1940年昭和15年にあてられ、紀元二千六百年記念の奉祝行事が詳しい。翌年に、開催予定だった東京オリンピックは資料が発掘されて、詳細を知ることができるが、こちらの総動員された各種行事はほとんど発掘されていない。クラシックの世界では、リヒャルト・シュトラウス、ピツェッティ、イベールらに作曲を依頼しそれらは演奏されたが、ブリテンのは「シンフォニア・ダ・レクイエム」というタイトルでお蔵入りになったのが有名(楽譜は東京音楽大学に収蔵されていてこの国のクラシックファンには周知であったが、イギリスではその事実が知られていなくて、1980年代にラトルが来日演奏の際に照会して「発見」されたというのがニュースになった)。それくらい。
 章のタイトルは
I.天皇陛下ノ赤子タルコト
II.紀元ハ二千六百年
III.われら大日本青少年団
であって、教育勅語の紹介に当時の小学校の雰囲気、奉祝祝典への動員、ヒトラー・ユーゲントに模した少年団活動について。端的には、政府―文部省―県―地方教育委員会―学校―生徒・児童という縦割り組織ができて、集団行動と軍事訓練が教育に加わり、少年団活動で放課後の行動も組織化されていたということ。そのうえで、上位下達の命令系統が貫徹され、その逸脱を許されなかった。
 自分が滅入ってしまうのは、イデオロギーのことではなく(そのことを議論すると収拾つかなくなるしね)、
1.総動員によって、個人の学習・労働・生活が監視化におかれること: ほっといてくれよ、好きなようにさせてくれよ、が通用しなくなる。選択肢が極端に少なくなり、「自由」な選択(行動や思想、ときには商品購入まで)ができなくなる。24時間いつでも呼び出しが可能になる。これは本当にうっとうしい。いつ、どこで、誰が、何をしたかが自動的に監視者に報告されて、不意に呼び出しを受け、叱責されるのだし、脅しや暴力をふるう理由になった。
2.総動員の組織が下部に降りていくと、監視と暴力が日常茶飯事になり、隠蔽されること: よくある例だが、それまで不遇だったり鬱屈するような自営業や中小企業経営者がそういう末端組織の長に収まって、国家権力を後ろ盾に暴力をふるうようになる。それを止める仕組みがなくなり、歯止めが無くなる。学校でも「スクールカースト」ができて、いじめと暴力が常にあった。教師は子供らのいじめや暴力をクラス監視に利用した。まあ、その体質は戦後の部活とか大学の体育会とか、相撲協会とか柔道協会などに継承されているみたいだが(いじめ、パワハラ、セクハラが隠蔽されるという点で)。
 あわせて価値が転倒・倒錯すること。組織・集団の目的達成と権威維持が最優先される。なので、個人の人権は無視され、組織のアイコンになる「御真影」「教育勅語」が命より重要になる。こういう価値の転倒・倒錯は、ファシズム組織に限るわけではなく、さまざまな権威主義的な組織(革命党、宗教組織、格闘技集団、営利企業など)で起こる。国家がそれを行うと逃げ場所がないから、被害が大きく、深刻になる。
 これらの状況を「封建制」とか「天皇制」とかで批判しても、的外れだろう。現在でも似た事例があり、それは「遅れた」「頭の固い」連中がやっているわけではないから。むしろ近代的な知識もをつエリートがそのような行動をとり、組織化を行うから。それに批判的になれず迎合するインテリも含めて、日本的な<システム>をみたほうがよい。
3.児童、生徒の組織化で、未成年の労働が奨励され、多くの場合、無給であること: 少年団活動は、地域の清掃であったり、募金であったり、換金可能な物の回収であったりした。それが国家に上納され、労働に参加した児童や生徒には分配されなかった。これは国家的な搾取になるのではないかな。最近でも、大学生のボランティア活動を単位に認めるような政策があったけど、同じ問題にならないかなあ。無給労働は国家のため(最近の場合では「あなたのため」に変形)とされるのはおかしくないかしら。失業や資源分配における国家の失敗や失政を国民に押し付けているのではないかしら。
 オーウェル「1984年」も似たような陰鬱さだった。あれは、国家のイデオロギーが云々という陰鬱さではなくて、上にあるような監視や暴力や無給労働の陰鬱さなのだよな。カメラ撮影というテクノロジーは遅れていたとしても、「1984年」の世界は、なるほどこの国にあったのだ、という憂鬱な再発見をした。
 あと、同じ時代の小学校を描いていて参考になるのは、岡野薫子「太平洋戦争下の学校生活」(平凡社ライブラリ)や藤子不二雄まんが道」かな。当時の小学生(国民学校生)は、総動員体制の教育に「適応」するために、進んで「軍国少年/少女」になった。