odd_hatchの読書ノート

エントリーは3200を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2024/11/5

河上徹太郎「ドン・ジョバンニ」(講談社学術文庫) オペラを聴くこと自体が大変な1950年。文献を頼りに評論を書く。

 文芸評論の仕事の方が有名な著者のモーツァルト論。収録された論文やエッセイは昭和10年から30年にかけて書かれたもの。タイトルの論文は1950年に書かれた。解説にあるように、昭和20年代モーツァルト論としては、小林秀雄「モオツアルト」1946、吉田秀和モーツァルト」1956に並ぶ。この時代はまだSPの時代。長時間録音はできないから、オペラを聴くこと自体が大変なこと。当時だと、戦前のブッシュ指揮「ドン・ジョバンニ」「コジ・ファン・トゥッテ」、ビーチャム指揮「魔笛」くらいしか全曲録音はない。アリアのさわりはまた別にあっただろうし、もしかしたらNHKFENのラジオで聞けたかもしれない。決定的に欠けていたのは、オペラの上演。舞台で歌手が歌い、ピットでオケが演奏するのを見るのは数年に一回あるかどうか。そんな時代。なので、頼りになるのは文献。「ドン・ジョバンニ」を書くにあたって参考にしたのは、キェルケゴール「あれかこれか」、アンリ・ゲオン、ピエール・ジャン・ジューゲらの文章。

 「ドン・ジョバンニ」の論を見ると、まずキェルケゴールの哲学が引用され、「ドン・ジョバンニ」が誘惑者であり官能の化身であると指摘される。官能ということからギリシャ劇や中世騎士物語を思い出すが、そういう古典の型としての官能ではなく、モーツァルトは個人の官能を表現しているそうな。その点では同時代のゲーテファウスト」に近しい。この誘惑者の主題は、全編を覆う「死」を背景にしていることが重要。ドン・ジョバンニとレポレロの二重性とか同一性とか、ドンナ・エルヴィラ/ドンナ・アンナ/ツェルリーナの女の欲望と復讐のアンビヴァレンツさとか。作曲者本人については、自己を音楽で表現しながらも、手紙のような文章ではできず、軽薄さと幼児性で時代と周囲の人々の誤解にさらされ、妻ですら理解されなかったとされる。ここらへんが彼の理解。だいたい小林秀雄「モオツアルト」と同じところにいる。違いは、作曲者はオペラの分野で最高の仕事をしているというところ。最後のポリフォニストという評価は目新しい(ふつうはロココの古典派でモノフォニーの作曲者なのだが)。
 強烈な自意識と自己主張がないので(小林秀雄の「モオツアルト」だと「俺の話を聞け」という小林の啖呵がぺーじのあちこちにある)、読みやすいかな。とはいえ、情報が古いので、研究者でなければ読むこともあるまい。
 むしろ、「ドン・ジョヴァンニ 」(名作オペラブックス)の方が網羅的だと思う。原著がでてから40年は経っているので、最新情報とは言えないけど。

 小林秀雄「モオツアルト」がでたときに、音楽評論家・山根銀二が「「モーツァルトの古典性を浪漫派的観念で粉飾しているが文学者にしてはよく書けている」と評したそうな(P187)。河上はこれに反対しているが、自分からすると、山根の評に共感。上記にあげた彼らの参考書、キェルケゴール、ゲオン・ジューゲら(これにスタンダールが加わる)、が19世紀から20世紀初めにかけてのもので、19世紀的な「真面目さ」「勤勉さ」「克己」「自己表現」「自己変容」などを重要な評価軸にしている。それが今の読者からすると、モーツァルトの多様性や両義性を故意にそぎ落としているよう。そのぶん、モーツァルトの音楽の面白さに小林や河上の文章は追いついていないと思うのだ。吉田秀和の昭和20年代の文章もそういうものだったが、後で克服したのか変容したのか、そういう不満がなくなる