自分の若いころには大学入試の論文解読の練習のために小林秀雄の「考えるヒント」を読むべし、といわれていた。一冊だけ目を通したことがあり、何が書いてあるのかわからなかった。で読むのを辞めたわけだが、これだけ例外。「モオツァルト」は、少しクラシックを聞きかじったころに読んだもの。それから数十年ぶりの再読。
モオツァルト1946.12 ・・・ この時代でかつ占領下ということになると、聞くことのできたモーツァルトはせいぜいのところワルター指揮の交響曲に、ブッシュ指揮グラインドボーン歌劇場の「コジ」「ドン・ジョバンニ」とビーチャムBPOの「魔笛」くらいかな。あらえびす「名曲決定盤」を読み返せばもっとあるかもしれない。2011年になると2万円もあればほぼすべての作品をきくことができる(演奏の質は保証できないが)。この聞くという体験の差異は、この古い評論をもう読まなくてもいい物にしている。なにしろ歌劇の上演を目をつぶって聞くだけだろうという人なのだから。出てくる作品も、ジュピター、ハイドンセットのどれか、弦楽五重奏、それにレクイエムくらい。聴取体験の乏しさは読書で補完する。モーツァルトの書簡集に、スタンダール、ワーグナー、ニーチェ、ロマン・ロランなどの引用で埋め尽くす。まあこれらも当時は入手困難であったとすると、読者は小林の体験に圧倒されるわけだ。彼の主張したいのは、モーツァルトには自意識なんかないよ、ある感情からすぐさま別のものにすばやく移動するものなのだよ、それに彼は芸術至上主義とは無縁で、金になる仕事は何でもしたよ、それが傑作になるのだったよ、すごいね(それがわかる俺様すごいだろ、俺の芸術論をとくと聞け。おい、聴いているか私小説家ども)。みたいなことかな。とはいえ、孫引きだらけと聴取体験の乏しさからは、モーツァルトの音楽は響いてこない。代わりに現れるのは神経質な小林の姿かな。
表現について1950.04 ・・・ 詩と小説と音楽では表現することが異なっていて、なんというか科学的な思想や方法では図れない「こと」があるんだ。音楽を聴くのには耳を澄ますことが重要で、それは絶対的な音をとらえることだ。なんだってさ。
ヴァイオリニスト1952.01 ・・・ 演奏会のメニューインを聞いて、ステレオのほうがいいとかいうやつもいるし、思想抜きで技術ばかりをおいかけたパガニーニというのも面白そうな奴だった、とかそんなこと。ああ、そうですか。
バッハ1942.09 ・・・ この時代だと、シュバイツァーのオルガンに、ランドフスカのモダン・チェンバロに、フィッシャーの「平均律」その他に、ブッシュ指揮の「ブランデンブルグ」、カザルスの無伴奏チェロくらいが聞けたかな。バッハの妻が書いた伝記の邦訳を読んだ。「バッハは常に死を憧憬し、死こそ全生活の完成であると確信していた」というのが結論だが、昭和17年発表でなければ、なんて能天気なんだということになる。
蓄音機1958.09 ・・・ 子供のころには聴診器のような蝋管蓄音機を聞いた(松本泰のエントリ参照)*1。そのあと、SPを聞いていた。戦中はそんな余裕がなかったけど、最近は聞くようにしている。ああ、そうですか。
松本泰「清風荘事件」(春陽文庫) 悠々自適なディレッタントが書いた探偵小説は上流階級を描いた英国風味。当時の読者とは趣味が合わないので忘れられた。 - odd_hatchの読書ノート
ペレアスとメリザンド1959.01 ・・・ ジャン・フルネ指揮によるドビュッシー「ペレアスとメリザンド」日本初演の様子。ちっとも舞台の事はかいてなくて、自分はドビュッシーは好きだが、メーテルランクは嫌いということに終始する。ああ、そうですか。
バイロイトにて1964.01 ・・・ 1963年にザルツブルグ音楽祭とバイロイト音楽祭を訪問したときのエッセー。バイロイトの指揮者は誰か知らないというので、代わりに書いておくと、「パルジファル」クナッパーツブッシュ、「指輪」ケンペ、「マイスタージンガー」シッパース、「トリスタン」ベーム(この年のリハーサルの様子を大町陽一郎が書いているはず「楽譜の余白にちょっと」)。小林にとっては音楽より文献のほうが大事らしいね、という感想。
何か重要なことを語っているようで、その根本みたいなのは言葉にしがたいとかいっているひと。まあ、ショーペンハウエルのいうあいまいでもうろうとした「思想」(のごときもの)を語っている人でした。自分にはあわないし、再読する価値もなかった。自分が間違えている可能性も高いけど、自分はこの人にはつきあえない。
角川文庫は絶版。ほかの版で今でも読める。
*1:ああ、しまったああ。松本泰の探偵小説についてエントリ用原稿を先に書いていたのでした。いずれ取り上げてリンクを貼ります。ごめんなさい。