odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

ニコライ・ゴーゴリ「鼻・外套・査察官」(光文社古典文庫)

 ニコライ・ゴーゴリは1809年生まれ1852年死去。ロシアの近代文学の書き手としては最初期の一人(歴史に記録されたものとして、という意味で)。光文社古典文庫版では、落語風の翻訳。地の文が会話につながり、会話する人物を批評するのが地の文になるという具合。文のおしまいがきちんと読点でおわらないこともある。自分は落語風というより、講談ダイジェスト(初期の都築道夫がよくやったパロディ小説)に似ていると思った。
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鼻 1836 ・・・ 床屋のイワンが朝食のパンに玉ねぎを挟むと、いつもと違った感じ。なんと前日に客だったコワリョフの鼻を持ってきてしまった。ペテルブルグの川に投げ込んですっかり忘れてしまったが、コワリョフはびっくり仰天。さっそく鼻を探しに町に出たが、だれも信用しない(顔をかくしているからね)。新聞社は嘘と決めつけるし、馬車に鼻が踏ん反りかえって乗っているのをみかけるし。コワリョフが鼻をなくしたという話はその日のうちに町中が知るまでになってしまった。鼻をが消えたというほら話を始めたら、どんどんほらがでかくなり、周りを巻き込んで大騒ぎ。関係者が増えてきて、誤解と歪曲がさらに混乱を増して、ついには収拾がつかなくなって・・・というギャグやコントの定番。発表年を見たら、その種の滑稽小説の早い時期のひとつ。通常は、鼻のアレゴリーとか下級官吏の悲哀とか封建社会の官僚制の諸矛盾などを読むのだろうが、俺はシンプルに笑いの文学とみることにする。なにしろ鼻が外套を着て馬車に乗り込み、コワリョフを叱咤するシーンが出てくるものね。このシュールなできごとはリアリズムでも社会派でもない。

外套 1843 ・・・ アカーキー・アカキエヴィチというさえない凡庸な九等官。しぶちんな暮らしをしていたが、どうにも外套が古びてしまった。小金をためて外套を作ったが、おひろめパーティの帰り道、暴漢に襲われて外套を奪われてしまった。その時の寒さが原因でアカーキーは死亡。そのあと幽霊がでて、人の外套を奪うといううわさがたった。というシンプルな話をゴーゴリが語ると脱線に次ぐ脱線。アカーキーは書記だというと仕事ぶりを熱心に語り、仕立て屋にいくとその男の風采をしゃべりだし、アカーキーが捜査を頼みに行くとそのエライさんの小心ぶりを事細かに描く。おかげでアカーキーに起きた悲惨な出来事がペテルブルクの官僚制を風刺する寓話のように思えるというマジックがかけられる。アカーキーが外套を新調する決断をするまでに、数か月かかっているのだが、時間がたつほどにアカーキーは外套に次第に執着していって、それこそ愛情をもつようになる。そのフェティシズムがおもしろい。

査察官 1836 ・・・ 査察官(これまでは「検察官」と訳されていた)がやってくる。中央官庁の監査役が市政に不正がないかチェックしに来るのだ。その噂に市長、視学官(学校のエライさん)、判事、病院監督官、郵便局長らはパニックになる。いずれも村人の無知と無学に付け込んで、うまい汁を吸っていたからだ。そこに双子かと思うような似た者の地主が宿屋に宿泊している若者が査察官だといいだす。そこで市長らは歓迎の案内をすることにし、その妻らの女性たちはおめかしをしてパーティを開くことにしと、いろいろやりだす。まあ、黒澤明「用心棒」に登場する八丁周りを迎えるヤクザ一家みたいなもんですな。その若者は実は詐欺師。従者一人をしたがえて(唯一知恵と道徳の持ち主なのが笑える。この組み合わせはモーツァルトのオペラ「ドン・ジョバンニ」みたい)、あちこちで寸貸し詐欺や結婚詐欺みたいなことをしていて、今はすっからかん。宿を追い出されそうになるところに市長がやってきて、宿のつけを払うわ、家にこないか(贈賄のため)などといいだす。この若者、口から先に生まれたような男で、それらしいでたらめや嘘をどんどん言い出す。すると市長一行はわけがわからないが視察官に違いないと思い込む。それに気づいた若者、今度は彼らから小金を借り出し、ついでに悪政の陳情にきた商人からも適当なことを言って小金を買いだす。ついでに、市長の妻と娘にちょっかいを出し、娘と結婚するようなそぶりまで。すっかり有頂天になった市長一家はペテルブルグの官吏に出世して、貴族の一員になる夢をみる。そのころには若者は従者と一緒にとんづら。
 たぶんかつては封建社会におけるプチブルの収奪の弾劾、社会不正の告発という文脈で読まれたと思うが(岩波文庫で読んだときのおぼろげな記憶)、これはシチュエーションコメディだな。利権や特権にあぐらをかいて停滞しているコミューンに、その外にいるトリックスターがやってきて、秩序をひっくり返し、権威の仮面を引っぺがし、尊大さの裏にある卑しさをさらけだす。ばかでぐうたらという地点ではだれもおんなじ。そこまでひっくり返しを行ったときにはトリックスターはコミューンから逃げ出して、だれも責任をとれない。それでも社会の秩序は元に戻って、相変わらずの暮らしが続くことを予感する。人の口には楽しい思い出として記憶されて、酒場で繰り返されるだろう。そういうお話。冒頭で著者は、登場人物がそこらにいる類型であり、そのように演じよと命じるのは、これが理由。


 イギリスやフランスは文学や小説がおのずと生まれることができたが(すなわち封建制社会を市民が打倒し民主主義と自由主義の政府を作る経験をしたということ)、ロシアはその経験をへていないときに、外から移植されてつくられた。なので、作家は何かを規範にし、模倣することから始めることになる。ゴーゴリの場合は同時代で少し前のホフマンなどのドイツロマン派に近しいと思う。ファンタジックな味わいや下級官吏という貧乏な知識人を主人公にしているあたり。
 それと同時に、ロシアで作家であることは現実の問題である政治(デカブリストの乱など)に対する態度表明や啓蒙を要求された。この事情は桜井哲夫「社会主義の終焉」(講談社学術文庫)を参考に。ネクラーソフやプーシキンツルゲーネフ、ドスト氏などはこの要求をそれなりに応えることができたとおもえるが、どうもゴーゴリはそういう「文学と政治」問題には疎遠であった様子。いや、そういう知識人(インテリゲンツァ)の役割を果たすことなど、頭の片隅にもなく、たんに楽しい、面白い話を量産したかったとみえる。本来ならマーク・トゥエインレーモン・クノー筒井康隆のようでありたいと思ったのだろうが、生まれた時代と場所に適合できなかった。
 というようなことが解説に書いてあったようなので、これから読む。