河出書房新社が1970年代に出した有名作家の論文・エッセーのまとめ。なくなるまでに国内外の作家30人くらいが出たのではなかったかな。夏目漱石とドスト氏だけが2冊出た。需要が多かったわけだ。タイトルの「ドストエーフスキイ」は、この出版社で出していた米川正夫個人訳全集における表記に基づく。ほかの出版社では「ドストエフスキー」が一般的だった。
収録されているのは、おもに戦後25年の間に書かれた論文(一部は抜粋)。この国がドスト氏をどう受容していたかがうかがわれる。この国のドストエフスキー受容は松本健一「ドストエフスキーと日本人」(朝日新聞社)が詳しかった。
ドストエフスキイ小伝(池田健太郎)1969 ・・・ 略伝。米川正夫の大著よりこっちがわかりやすい。
「罪と罰」について(小林秀雄)1948 ・・・ この人の書いたものはタイトルの対象をダシにして「僕(小林)」のことを語っているので、あまり面白くない。気づいた指摘は、「罪と罰」でそれまでの一人称をやめて三人称になった(ということを米川も指摘。でも中編と「作家の日記」は一人称)。「地下生活者」の延長にラスコーリニコフがいる(前者40歳、後者25歳であることに注目)。第6編の自白で物語は終了したという(でもエピローグの夢を重大視するなど、構成が一貫していない)。
イッポリートの告白(秋山駿)1964 ・・・ イッポリート@白痴は内部の人間、自己自身の内部に閉ざされている。「地下生活者」の直系。(というのなら、イリューシャやリーザ@ふたりともカラマーゾフの兄弟との比較もすればいいのに。まあ、キャラクターの比較や系譜調べにはあまり意味はないけど。この人も自分語りが多くて、参考にならない。)
私のドストエフスキー体験(椎名鱗三)1967 ・・・ 「ほんとうの自由」を考える手立てとしての「悪霊」。(他人が介入できない思想・内面の自由と、他人との関わりで制約が不可欠な行動の自由をごっちゃにした議論はダメだと思う。自由を思想に限って考えて、思考の隘路から生まれる憂鬱や無関心を理由に行動しなくなるのは怠惰の言い訳だよなあ。)
ドストエーフスキーにおける「自由」の一考察(森有正)1949 ・・・ イワンとアリョーシャの会話及び大審問官を例に自由を考える。こういう自由(とくに自己の束縛を破る)を神に絡める議論はよくわからない。おれは自由は「地下室」の中で考えるものではなく、実践のなかでつかむものだと思うので。それにしても隣人とどう交通(@マルクス)するかにおいても、神を通さないといけない西洋は大変。
「地下生活者」の造反(河上徹太郎)1970 ・・・ チェルヌイシェフスキーの理想主義的社会主義に無思想で「造反(1970年当時の流行語)」する地下生活者。(ボードレールとドストエフスキーは同い年なんだって。そこで「パリの憂鬱」と「夏象冬記」(にあるパリの記述)を並べる。)
「観想」としてのニヒリズム(西谷啓治)1949 ・・・ 「地下生活者の手記」で、ノルマルな人間性からはみ出した「レトルト(蒸留)の人間」がかえって自己をノルマルであると自覚するという説。どうでもいい。
ドストエーフスキイと日本文学(小田切英雄)1963 ・・・ 明治20年代、大正時代、昭和10年代にそれぞれ異なる視点で読んできた。(戦後は、戦後文学の作家が好んで読んだ。そのあとは2000年ころからの光文社古典新訳文庫まで飛ぶ。)
悲劇の哲学(抜粋)(シェストフ)1903 ・・・ 第12-14章。レフ・シェストフ「悲劇の哲学」(新潮文庫)-1
自由(ベルジャーエフ)1922 ・・・ たぶんギリシャ正教からみたドスト氏の自由(ドスト氏はカトリックと社会主義を強制的な調和とみていて、それが「死の家の記録」に典型的なドスト氏の自由を抑圧するので反対するのだという主張になる、というような説明はしっくりきた)。
小演説(ジイド)1921 ・・・ 典型ではなく個人であるドスト氏のキャラクター(これを読むと、この時代にフランスではドスト氏の人気はなかったのか?)
そうじて低調な論文が並ぶ。ドスト氏の自由はいつも具体的な問題として表れる。幼児や児童の虐待、女房への暴力、農民への鞭打ち、他国人やユダヤ人などマイノリティへの排外。そこでどう判断するのか、どう行動するのか、具体的なアクションを問われる。それを批評家は抽象的な問題に還元する。そうすると、ドスト氏及びキャラクターの自由を獲得する過程の苦痛や苦悩の問題がすっぽりと抜け落ちる。上の論文を読むと、批評者のお勉強の成果の発表会に思えて、彼らはどうするかが全く響いてこない。
2019/11/18 河出文芸読本「ドストエーフスキイ」(河出書房)-2 1976年